私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

本居宣長と高尚

2012-11-14 19:43:42 | Weblog

高尚が本居宣長の門に入るきっかけは笠岡の師である小寺清先による推挙があったと言われていますが、最初、父親の高久はそれに強く反対したのだと言い伝えられていますが、高久も当時の宮内にあっては相当な文化人であったのですがから、それも清先の推挙です。反対する理由がないのですが、高尚は父親の承諾なしに家出同然のようにして宮内を離れたのだそうです。そこら辺りの様子について、例の「松の落葉」にはないも取り上げていませんので、詳しいことは分からないようです。

 高尚の「神の御蔭の日記」の中に
    ”八とせ経て再たいめいたまはることうれしともうれし”
 とありませから、この日記が書かれたのが寛政十一年ですから、8年前と云うことですから、高尚がその前に宣長に逢ったのが寛政三年だと思います。高尚27歳の時です。

 では何時から何時ごろまでまで高尚は宣長の鈴屋にいたのでしょうか???


高尚の学問

2012-11-11 17:16:13 | Weblog

高尚は初め国学と歌を備中笠岡の人小寺清先に、歌を京の栂井一室に学び、後に本居宣を師とする。

 松屋文後集神部職任考のおく書に
 “小寺清之をぢはおのれいまだいとわかくてその父君の許に物学するとて行き通ひつるをりのしる人”
 とあります。また、栂井一室については、高尚の父高久は老後この人について歌を学んであり、高尚も、又、その門に入ったようです。一室の高久に宛てた書状に
 “小膳様(高尚の幼名)御詠草数首拝吟いたし候。いづれもよく調候様に被存候。次第に御上達御事存候”
とありこの人について和歌の勉強をしたことが知られます。


松の屋

2012-11-10 10:58:45 | Weblog

 高尚の号は松の屋という。又松斎と書いています。

 「松の落葉」一の巻に
  “おのがすみかを松の屋と云うは古歌に「千年を松の深き色かな」(新古今集賀歌天暦の御時大嘗祭ノ主基備中の国中山、よみひとしらず≪ときはなる吉備の中山おしなべてととせをまつの深きいろかな≫)とよみたりし中山の麓にて松多かる所なるに庭にも五もと六本ふりていと大なるがあれば、やどの名におふせたるなん”

 「松の屋は宮内三日市にあり、今は小学校となれり。今も門内に大なる松三本集まり立てり」と通泰は書いていますが、今ではここは岡山大学の管理地となり。松なども既に枯れ、その昔を語る面影は殆ど、この屋からは消え失せております。


高尚の氏姓について

2012-11-09 20:04:29 | Weblog

 藤井高尚の著書「松の落葉」によると

 おのが家藤井氏なることは世々つたへきつる家の書どもにも見えてさだかなり。めうじはなし。今の世におしなべて氏の外にめうじはあれど稀々にはかく氏のみなる家もあり。かばねを宿禰とかき又大中臣ノ藤井ともかくよしは賀陽(カヤ)ノ貞持が家につたへたるわが神の御社の記に・・・・・大中臣ノ藤井といふは大中臣氏より出でたる藤井ということにてかしこけれどおのが家も天ノ児屋ノ命を祖神とぞ申べき。

 父高久の代までは藤原の氏を用ひき。そは古典に明らあきらかなざりしに由る


南天荘雑筆

2012-11-08 11:47:41 | Weblog

藤井高尚について、昭和の初めですが、広く一般に紹介したのが岡山医専の井上通泰博士の書いた「南天荘雑筆」です。そこに書いてある「高尚伝」を紹介します。

 藤井長門守高尚は初忠之丞と称し次に小膳と称す。
  自筆ノ詠草 文化十一年ノ巻
   高豊(高尚ノ子)が妻の子を生みて七夜といふ夜その子の字を忠之丞とつけてこれもまたおやの名つぎて忠
   ならばわが松のやぞいやさかえなむ
  おのれがはじめの名をしかいひしかば高豊をもさつけし事を思い出でてなん

 このことからも高尚も高豊も初めは忠之丞と云っていたこと知られるのです。

 また、小膳という呼び名も岡山の人若林朴介が「扶桑雅人録」の中に見られます。
 名は松屋文集等に「たかなお}と書かれています。備中賀陽郡宮内の吉備津の宮の社家頭です。大祓詞後々釈の初めに吉備津宮宮司長門守従五位下藤井宿弥高尚と書いてあります。宮司(ミヤツカサ)とは社家頭を雅に云ったのです。吉備津宮には社家頭五家があり高尚の家もその内の一つなのだ。


藤井高尚2

2012-11-07 15:10:11 | Weblog

 「藤井高尚」と言う人を知っていますか。
 「そんな人聞いたこともない」とおっしゃられるのではないかと思います。熊治郎の生まれた宮内に生まれます。彼の記念碑が吉備津神社の犬養木堂の銅像の傍に立っている没後100周年の記念碑によると明和元年(1764年)に吉備津神社宮司藤井高久の子として生まれています。

 その記念碑の説明によると、幼少時から笠岡にいた小寺清之に師事し、更に、三重の松坂で鈴屋を開いていた本居宣長の元で源氏物語や古事記等の国学を習います。そして、終には、鈴門の四天王の一人と称されるようになります。しかし、父高久の死後、吉備津神社の宮司に就任するために宮内に帰ってきます。