宣長の死後、その学問をより多くの人に広めるために、長谷川管緒、城戸千楯等など5人の鈴屋門の人達が中心に、「鐸舎(ぬてや)」という塾を京にて開いています。その塾に高尚も、時々、出向いて出張授業を行ったのです。
そのことについても「松屋文後集」に
・月ごとに六度の書よむまとゐ、あるはいにしへぶりの文かき、長歌みじか歌よむまとゐをもこヽにてせんとて事おこしてものしたるなり。
・年々のまとゐの始には奥の小床の壁に、荷田大人・縣居大人・鈴屋大人のおもかげのうつしゑのかけものというものをかけならべてみたま祭る事せり。
・よき方人のいできぬるは高尚がをりをり都にまゐりていにしへ書ども人にとき聞かせけるいさをなりとて故翁の君のまな子につぎて己を此の屋のまろうどざ ねとかしづかるヽはいみじきめいぼくになんありける
・さてぬて屋としもいふはまとゐすべき友だちの限ひきならしつつ入り来とて母屋の戸口に大いなる鐸(ぬて)のかかりたるゆゑにやあらん。「おきめくらしも」のふるごとの思いでらるればなり。そのゆらぐぬての音に鈴の屋の学のふりを慕へる心ばへはおのづからこもりてこそ。
このように書いております。