私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

高尚の書状

2012-11-17 10:56:06 | Weblog

 井上博士の高尚伝には、高尚が岡山の若林正晃と云う人に送った書状がありますが、その書状には、宣長について次のように書いています。なお、この書状には日付が落ちていますが、その内容から、始めて宣長と対面した時、寛政5年のことではないかと推察されます。

 本居春庵名宣長。号鈴屋。・・・・松阪にしばらく滞在、日々参候て国学専要之儀共論じ候て高論を承候。歌文章の儀は私多年ねり候所甚宣と被賞申候別に論もなく同心に御坐候て万葉家の古体を好はあしきよし被申候・・・・・

 ここに書かれている内容を要約していますと、
 1)高尚が宣長と合って、宣長の高論(非常に優れた意見)を聞き、和歌や文章について、自分がこれまでに練ってきたものと 全く同じで、宣長から、「甚だ宜しい」とお褒めていただいた
 2、宣長の神道については大いに参考になった
 3)宣長は、当時、耳が遠く筆談をしながら古書を論じた
 4)当時、日本では儒学に押されて国学が衰えている事を嘆かれ。「国学をひろめ候様とくれぐれ被申、約をなして帰り申候」。国学をもっともっと日本の国に広めるように頑張ってくださいと励まされた
 5)この時(宣長に会った時のこと)沢山の国学者にあったが、そのいずれも自分流の意見(我意をたてしゐたる論)を主張してやまなかった人が多かったが、宣長の説は、何時も、その論説は正論で、真の古学者である。だから、自分は、此の翁、宣長に「随身仕候」 と、この書状を結んでいます。

 この書状を見ると、やはり、高尚が始めて宣長に合ったのは、やはり、いのうえ先生が言われる「寛政5年の説」が正しいのではないかと私は結論付けました。どうでしょうかね??????昨日の緒方富雄の説もそうですが