高尚の結婚について、それを記したものは見たことはないのですが、向山の藤井家の墓地にある高尚の妻繁弥の墓碑を見ると「文化十五年卒・・・行年四十九」とあり、また、その子高豊が生まれたのは寛政三年(1790年)のことです。だから、昨日の高尚が本居宣長に「八とせ経て再たいめいたまはる・・・」は寛政十一年のことですから、その八年前には、寛政二年には、既に、長子高豊は生まれていたのですから、当然宮内にいたと思われます。そう見てくると鈴門人録にある寛政五年の条にある
“備中吉備津宮社人藤井長門守高尚”
と云う記述が訝しいと思われます。又、高尚が長門守を賜るのは寛政十一年のことですからこれも記述に誤りがあったこと間違いありません。
一説によりますと、十六歳で鈴門に入り、二十二歳で宮内に帰って来たといわれています。
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