藤井高尚について、昭和の初めですが、広く一般に紹介したのが岡山医専の井上通泰博士の書いた「南天荘雑筆」です。そこに書いてある「高尚伝」を紹介します。
藤井長門守高尚は初忠之丞と称し次に小膳と称す。
自筆ノ詠草 文化十一年ノ巻
高豊(高尚ノ子)が妻の子を生みて七夜といふ夜その子の字を忠之丞とつけてこれもまたおやの名つぎて忠
ならばわが松のやぞいやさかえなむ
おのれがはじめの名をしかいひしかば高豊をもさつけし事を思い出でてなん
このことからも高尚も高豊も初めは忠之丞と云っていたこと知られるのです。
また、小膳という呼び名も岡山の人若林朴介が「扶桑雅人録」の中に見られます。
名は松屋文集等に「たかなお}と書かれています。備中賀陽郡宮内の吉備津の宮の社家頭です。大祓詞後々釈の初めに吉備津宮宮司長門守従五位下藤井宿弥高尚と書いてあります。宮司(ミヤツカサ)とは社家頭を雅に云ったのです。吉備津宮には社家頭五家があり高尚の家もその内の一つなのだ。