私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

熊次郎親分

2012-10-05 15:31:59 | Weblog

 岡田屋熊次郎が宮内の市頭となったのは文政2年(1819年)です。市頭と言うのは、此の宮内の山陽道随一の繁華街の一切を取り締まる役です。その為に、彼が持っていた乾分の数は300人とも言われています。300人ですよ。これだけの狭い宮内に300人者やくざの乾分はいたなんてとても今では信じられないことなのですが。
 後年彼の娘が語ったとされる彼の逸話が残っています。それによりますと。此の熊次郎は、男っ振りがよく、話術が巧みな人だったそうです。背丈は比較的小さかったのですが威風あたりを払って大きく立派に見えたと言われ、貫録十分な親分だったようです。
 当時、岡田屋には1ヶ月に三百両の収入があたっとも言われていますから、千石取りの武士以上の実入りがあったのだそうです。


宮内の大親分「岡田屋熊次郎」

2012-10-04 10:06:59 | Weblog

 ヤクザの大親分と言えば、現在、日本国中で「清水の次郎長」を真っ先に挙げない人はいないといっても過言ではないと思います。「泣く子も黙る大親分」として、日本全国に知れ渡っています。では、どうして、この次郎長がそんない有名になったのかと言えば、次郎長を主人公にしたお話を「天田五郎」という人は作ったからです。彼の書いた「次郎長伝」が、明治の文明開化の波に乗り、本に、また、新聞に、更に、明治の終わりごろからは映画にと取り上げられ、その名が一躍全国に広まったのです。
 ところがです。当時、此の清水次郎長と同じくらい、いや、彼より以上に、やくざの世界で勢力を誇っていた大親分が、山陽道にもいたのです。吉備津神社を中心とした大市が開かれていた宮内で、そこら辺り一帯を取り仕切っていたのです。全国的でに見ても、その名は当時のお江戸においても、その道では名前が轟いていたと言います。明治以降のマスコミに取り上げられなかっただけで、実質的には、この人が日本一の大親分であったという人さへもいるそうです。
 その人の名は、「岡田屋熊次郎」と言います。
 なお、この熊五郎親分と前に挙げた藤井高尚や真野竹堂等の宮内の文人達とは、確実に、一線を画して居ったのではないかと思われます。お互い見て見ぬふりをして不干渉的な生活をしていたのではないかと思われるのです。高尚の書いた物の中に、此の熊次郎のことに付いては、何一つ触れられていません。その他、彼の手紙の中にも見ることができません。


頼山陽と宮内

2012-10-03 09:28:31 | Weblog

 頼山陽が宮内に遊んだ時期は、文化文政の時代です。この時代の宮内の賑わいの程はいかばかりであったか、様子を伝える歴史的な遺物は、何処をさがしても何も残ってはいません。だから、牛尾氏の「宮内の今昔」の中でも

 “宮内の賑ひたることは幾んど今の人の想ひ及ばざる所なり”

 と書いています。現在の宮内に立って見ても、その面影を想像することさへできません。ただ、普賢院の山門の傍に建ててある山陽の石碑にある「不許葷酒山門」という文字にだけが、わずかに、往時の匂いを漂わせております。

  三十日、台風は遠く逃げ、予期せぬ名月に誘い出されて蕪村の天心の月を眺めんと、夜半に宮内を彷徨ったのですが、
 その時に  
       “名月や 山陽の文字に 薄明かり”
 

 どうかお笑いくださいますな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

賑わい


瀬山陽も宮内に遊ぶ

2012-10-02 15:57:38 | Weblog

 この宮内は、単に、遊興の地、遊廓のある場所と言うことだけにとどまらず、全国からこの天与の風光を愛する文人墨客たちが多くその杖を引いて此の地に遊んでいます。
 中でも、瀬山陽の如きは前後十一ヶ年にも及び此の地に遊びたりと伝えられています。
 瀬山陽は、特に、此の宮内の韻士、真野竹堂家に起居していたのです。嘘か誠かは分からないのですが、一時、此の山陽は真野家の店用当座帳を記入していたとさへ云われていたのです。


ご存知ですか藤井高尚

2012-10-01 21:13:18 | Weblog

江戸の末期に活躍した吉備津神社宮司藤井高尚と言う人を知っていますか。

 この人は学を修め歌をよくし、その徳は高く、寛政11年5月には従五位下に叙されて長門守に任じられています。高尚はこの宮内の天然の風刺をこよなく愛して、その風雅が損なわれるのを随分と心配してその保存に努めます。殊に神社境内外の樹木は損木たりとも容易に採伐を許さず、境内にある微細な物まで一切その位置を転ずる事を厳しく禁止します。

 更に細谷川を落ちる水の潺湲とした傍らに桜を植え嵐山に擬せんとしたのです。そして、そこを桜谷と称します。更に歌に詠みて碑に刻みて之を立てたのです。