私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

もう少々熊次郎親分に付いて

2012-10-18 18:03:40 | Weblog

 熊次郎は安永七年(1778年)に片山町の料理屋の息子として生まれていますが、その料理屋も潰れ、熊次郎は十七,八歳の時分にはザルを担いで遠く足守辺りにまで物売りに歩いていた「ぼてふり」だったと言い伝えられています。
 しかし、熊次郎には生来の肝力が座りっており、少々のことにはびくともしない強さが備わっていたのです。それと共に頭もよく何事にも機転がきき、争いなどの解決に打って付け性格で、当時の宮内を仕切っていた親分「江戸市」一家に、二十前後になって、身を寄せていたのです。この彼の性格が、任侠の世界で大変重宝がられ、たちまちのうちに頭角を現します。そうこうしている時、身を寄せていた親分「江戸市」が、何かの事件で、「お上からの命令で」としか書かれてはいないのですが、多分、庭瀬藩だと思いますが、何かの事件に関連して、一家が解散させられてしまいます。
 此の事件の後、熊次郎が、並居ぶ兄貴分を通り越して、江戸市の後を受けて、この宮内の市頭を継承したのです。そこら辺りに付いて、又機会がありますれば、面白可笑しゅう物語を作り上げてみたいと思っていますが。
 が、とにかく、これを契機に、いっきに、江戸市に変って、この宮内を支配する「岡田屋熊次郎親分」の誕生となるのです。と、山陽道一の大親分の誕生なのです。 

 なお、この熊次郎と同時代にです。備中「宮内」に、その人ありと、日本全国にその名を知られた名高き吉備津神社々家頭、宮司です、「藤井高尚」先生ありましたが、先生が生まれたのは明和元年(1764年)ですので、この熊次郎より14歳年上になります。同時代にです。屋敷も一町も離れていません。だから、顔ぐらいはよく知っていて、ことばぐらい交わしたことはあると考えられるのですが、此の熊次郎については、高尚先生はその著書などに壱行たりとも書かれていますん。どんな思いで此の宮内の市頭熊次郎の暮らしぶりを見ておいでであったのかも、これ又、江戸市一家の消滅と同様に全くわからず、何の手がかりすらないのです。なお、市頭の働きがあったからこそ吉備津神社の運営も正常さを保たれていたということには間違いありません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿