私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

智恵者の熊次郎

2012-10-20 10:38:55 | Weblog

 何をしても熊次郎の知力には群を抜いていました。

 その例として、「富くじ」の発行を企画したのです。
 当時、宮内芝居は、前にも書きましたが、幕府の許可を貰った御朱印芝居でした。江戸・大阪・京以外ではこの宮内にしかない芝居小屋です。それだけ権威のある芝居小屋だったのです。だから、大坂や江戸の人気役者が堂々と、此の宮内の芝居小屋で演技することが出来たのです。普通なら、こんなド田舎の、それも常設の芝居小屋ではない仮設の芝居小屋にです。超一流の大江戸の飛ぶ鳥さへ落とすとさへ言われていた大役者「坂東三津五郎」一行の芸人なんかが、いくらお金を積んだとて来る訳もありません。彼らは、当時の社会では、風習として、相当名誉を重んずる社会に属していたの人々です。いい加減な名もない、それもド田舎の小さな芝居小屋で芝居を見せようものなら、たちまちのうちに「田舎芝居の芸人に落ちこぼれやがって」と噂され、卑下され人気を失ってしまうような社会にいたのです。それくらい最高の立場にいた大役者が、堂々と胸を張って、それも扁額や玉垣まで奉納していたのです。「私はこの宮内で芝居をしました」と宣伝していたのです。それは自分の名誉にもつながることだったのです。それくらい、この宮内の芝居は、当時に有っては、それはそれは大変権威のあるものだったということが分かるのです。 

 その結果、この宮内芝居の見学の為に、岡山を始め近隣の村々からだけでなく、讃岐はもとより、芸州や雲州辺りからも多くの見物人が押し寄せてきたのだそうです。その為の役者招へいの為にも、熊五郎は江戸や大坂を何回も行き来したのだそうです。その為に季節によっては、熊次郎はほどんどこの宮内には居なかったまでと言われています。
 この熊次郎が偉かったのは、ただ、宮内に人気役者を連れてきて芝居を見させるだけではありませんでした。大勢のこの芝居見学にやって来た人々から、いかにして、懐の財布の紐をゆるめさせ、彼等の持つ余分な金を地元に落とさせるか考えます。
 そこで考え付いたのが、「富くじ」です。しかも、芝居の見学するためには、必ず、この富くじの券がなければ見物できないという、所謂、芝居見物と富くじをセットにした興行を考えついたのです。それがまた好評を得て、ますます、盛んになっていたということです。この富くじの発行元が岡田屋と宮内の一市頭と言う個人的な企画ではなくて、ちゃんと権威ある吉備津神社という大きな後ろ盾を利用して信用度を増し、隆盛を究めたのです。このためもこの宮内は今までかってなかったほどの大変繁昌したのだそうです。時は恰も江戸の文化のまっ盛りの文政年間のことです。昨日の三津五郎の扁額方奉納の日も文政九年となっています。念のためですが。


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