岡田屋熊次郎が宮内の市頭となったのは文政2年(1819年)です。市頭と言うのは、此の宮内の山陽道随一の繁華街の一切を取り締まる役です。その為に、彼が持っていた乾分の数は300人とも言われています。300人ですよ。これだけの狭い宮内に300人者やくざの乾分はいたなんてとても今では信じられないことなのですが。
後年彼の娘が語ったとされる彼の逸話が残っています。それによりますと。此の熊次郎は、男っ振りがよく、話術が巧みな人だったそうです。背丈は比較的小さかったのですが威風あたりを払って大きく立派に見えたと言われ、貫録十分な親分だったようです。
当時、岡田屋には1ヶ月に三百両の収入があたっとも言われていますから、千石取りの武士以上の実入りがあったのだそうです。