博打とは賭博のことです、日中、賭場で、それも公然と開いていたならば、当然、お上からお咎めがないわけはありません。幕府のご朱印芝居小屋の運営が認められている宮内だって、禁止されているはずです。それぐらいの規制はある筈です。しかし、それが分かっていながら、大々的に、世間に公表してまで、行われたというのですから、「どうしてと」日本全国の博打うちだけでなく、一般の人々がいぶかしがるのも当然です。
さて、それを可能にした熊次郎が打った手と言うのが、誠に奇抜といいましょうか、目の付けどころが、普通の博打うちとは違っていたのです。
目に付けたのが、吉備津神社宮司の藤井家と言う家柄なのです。何処からでた情報であったかは知りませんが、大方、あの藤井高尚先生などの影響があったのではないかと推定されえます。なお、此の高尚先生と熊次郎が直接深く関わっていたという資料はありません。お互いに無干渉の関係であったのではと思われるのですが?
まあ、熊次郎は、高尚先生のお書きになった随想の「松の落葉」を読んだのだろうと思いますが。その本からの知識であったのではと私は思っているのですが。
ちなみに、その中で高尚先生は、「大中臣藤井ノ宿禰 松の屋」と題して、ご自分の家の血筋に付いて書いておられます。
それによると、もともと藤井と言うのは大中臣氏より出た藤井であり、「かしこけれど、おのが家も天児屋見命を神祖とぞ申べき』と書いてあります。この大中臣氏といえば藤原鎌足を祖先とします。その藤原氏と同じ血筋であるということです。そこに目を付けたのです、岡田屋熊次郎は。
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