私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宮内の市頭「熊五郎親分」

2012-10-19 15:30:10 | Weblog

 熊五郎は江戸市消滅後に、大勢の兄貴分を差し置いて宮内の市頭に就いたのは文政二年(1819)で、その時はもう知力・胆力・侠骨の最も充実していた男勝りの42歳と言う年でした。

 この市頭という地位は、宮内の治安はもとより、宮内財政について一切の経営、運用の総責任者であり、この宮内がさびれることなく切り盛りしなくてはならないのです。市の場所割りから、大市の運営、江戸や大坂からの役者の招へいと小屋掛け、更に、平生、いかに宮内にお客を集め、その客から銭をいかに多く落とさせるか、その企画運営まで幅広い役目があったのです。だからこそ、それらの携わる乾分が300名もいたのです。清水次郎長ですらそんなに多くの子分は持ってなかったのではと追われています(伝説的には1000人もいたと大見えを切る講釈師もおったとか???)
 
 現在、吉備津神社の奉納されている江戸役者坂東三津五郎の扁額を見てもそのすごさが伺われます。文政9年ですから、熊五郎が47歳の時に招へいした江戸の人気役者です。このような当代きっての売れっ子人気役者がはるばるこの鄙の地にまでやってきて芝居をしているのです。それを目当てに、岡山の近隣の人だけでなく遠く中四国九州あたりからも、この江戸一の人気役者の芝居見学に人々が集まったといわれています。それぐらいすごい人数を集めたのだそうです。其のもつ彼の胆力、知力には驚かされます。そこら辺りに、ただやくざな親分として、その派手な立ち回りの喧嘩しか伝わってない清水親分と、漢字で書けば同じ「親分」ですが、その人間としても魅力と言うかスケールの大きさに、大きな違いがあるのです。