岡山県通史によると、高尚が吉備津神社境内に立てた「敬業館」というその名前の由来は、元々笠岡にあった郷校の名を借用したのです。
その笠岡の敬業館の初代の教授をしていたのが「小寺清先」という和漢の先生でした。高尚の父「高久」の知人という関係で、早くから、高尚は笠岡にまで行って勉強したのです。」
この清先は「和漢学者で詩歌を善くす」と記されております。
多分、高尚もこの敬業館で清先先生に教えを受けたのでしょう。どのような経緯があったのかは知らないのですが、最初は「狭長屋」という名でしたが、吉備津神社境内に作った学問所を後に、この清先先生の塾の名前を借用して、同じ名前である「敬業館」として、社家の子弟のための学問所にしたのだそうです。
その笠岡の敬業館の初代の教授をしていたのが「小寺清先」という和漢の先生でした。高尚の父「高久」の知人という関係で、早くから、高尚は笠岡にまで行って勉強したのです。」
この清先は「和漢学者で詩歌を善くす」と記されております。
多分、高尚もこの敬業館で清先先生に教えを受けたのでしょう。どのような経緯があったのかは知らないのですが、最初は「狭長屋」という名でしたが、吉備津神社境内に作った学問所を後に、この清先先生の塾の名前を借用して、同じ名前である「敬業館」として、社家の子弟のための学問所にしたのだそうです。