「藤井高久」この人の名も昨日の藤井茂弥同様、あまり吉備津に於いてもその名を知っていると思われる人はいないのではと思われます。
この人は高尚の父親です。この人のお墓も吉備津向山にある藤井家の墓地高尚の横に建っています。その墓には「前但馬守従五位下静斎藤井高久(表)文化四丁卯年四月六日卒(裏)と記してあります。
井上通泰の南天荘雑記によると
「高久初内記ト称ス。初ノ名はハ高賢。号ヲ静際又ハ細谷亭ト云ウ。歌を春秋庵満光及栂井一室に学ぶ。明和二年八月一日従五位下ニ叙セラレ但馬守ニ任ゼラル」とありあすから。この人は死後に京の吉田家から但馬守に任じられたようです。
なお、其の子高尚も父と同じく吉田家から霊号を賜っていたのですが、父と違う所は、高尚は生前に霊号を既に賜っていということです。
なお、この高尚の父高久も岡山県人名辞書によると、そのの妻小春とともに「和歌を能くす」とあります。このことは、この江戸末期の文化文政前後の時代に、吉備の国にあって、吉備津の地に和歌が隆盛を極めていたということを物語っているのです。昨日の高尚の妻茂弥を始めとした和歌の世界に、この吉備津の名を全国的に知らしめていた頃なのです、其のピークは云わずと知れた、あの高尚の孫娘松野の夫となった緒方洪庵の甥である藤井高雅(たかつね)の時代なのです。
この人は高尚の父親です。この人のお墓も吉備津向山にある藤井家の墓地高尚の横に建っています。その墓には「前但馬守従五位下静斎藤井高久(表)文化四丁卯年四月六日卒(裏)と記してあります。
井上通泰の南天荘雑記によると
「高久初内記ト称ス。初ノ名はハ高賢。号ヲ静際又ハ細谷亭ト云ウ。歌を春秋庵満光及栂井一室に学ぶ。明和二年八月一日従五位下ニ叙セラレ但馬守ニ任ゼラル」とありあすから。この人は死後に京の吉田家から但馬守に任じられたようです。
なお、其の子高尚も父と同じく吉田家から霊号を賜っていたのですが、父と違う所は、高尚は生前に霊号を既に賜っていということです。
なお、この高尚の父高久も岡山県人名辞書によると、そのの妻小春とともに「和歌を能くす」とあります。このことは、この江戸末期の文化文政前後の時代に、吉備の国にあって、吉備津の地に和歌が隆盛を極めていたということを物語っているのです。昨日の高尚の妻茂弥を始めとした和歌の世界に、この吉備津の名を全国的に知らしめていた頃なのです、其のピークは云わずと知れた、あの高尚の孫娘松野の夫となった緒方洪庵の甥である藤井高雅(たかつね)の時代なのです。
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