私の町 吉備津

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備前吉備津宮のもとの主神は温羅では?????

2012-02-24 19:55:54 | Weblog
 古い備前吉備津宮については、此のお宮さんに伝わる「古代御社図」に描かれています。この図には「康永元年」「文明三年」「慶長九年」等という年号が並んで、其々の年に建築されたお社の説明のある案内板が設置されています。例えば「御本社」については

 「文明三年、本社、八間八間、丑寅向也、但し椙わだぶき也」
 
 とあり、此の外、神宮寺など四十幾つかの建物の名前が書かれてあります。なお、この「社図」に描きこまれている年号ですが、康永元年というと1342年で、慶長九年というのは1604年の事ですから、250年間の建物の有様を示した図です。
 

 なお、この社図で面白いのは「本社、丑寅向」と書かれていることです。
 備中の吉備津神社は北向きで、どうしてかわ分からないのですが、その神殿内部の「丑寅向き」の方向には、朝廷から派遣されてきた吉備津彦命と争った例の温羅を祀ってる祠が有ります。でも、古い時代の備前吉備津神社では、本殿その物が、わざわざ「丑寅向」であったと書かれているのです。
 備中の吉備津神社にある「丑寅向き」と備前の吉備津神社の「丑寅向き」何らか関係がありそうだと思われませんか。
 これは私の勝手な想像なのですが、此の備前吉備津神社が出来た最初は、やはりあの温羅がお祭りされていたお宮さんだったのではないでしょうか。それが、何時の頃からかは分からないのですが、今までお祭りされていた温羅ではんくて、吉備の国を征服した吉備津彦命に変わり、この国の一宮になったのでなないかいなと想像しているのです。そうでなかったら、わざわざ丑寅向き何て説明は不要なのではないでしょうか。吉備の国に伝わる温羅に関するお宮さんを尋ねてみてもそうなのですが、伝説として伝わる悪い鬼「温羅」ではなく、この人物は、当時、この吉備国を支配していた相当な勢力を持っていたこの地方の豪族で、吉備の国の人々から大いに尊敬されていたのではないかと思われるのです。それは大和朝廷からすれば統一国家制定に向けては邪魔になる鬼のような人物と見られていたのではないでしょうか。それでわざと鬼のような悪魔だと宣伝する必要があったのではないでしょうか。だから、此の備前の吉備津神社が吉備の国に最初にあった吉備の国の首長お祭してお宮さんではなかったのでしょうか。起源からいいと備前の吉備津神社の方が古いのではないでしょうかね??????

 
  まあ、これも私の詰まらないひとりごとですが。

 

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