私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

木下長嘯子と細谷川

2011-01-10 15:06:52 | Weblog

 吉備津神社の鳴る釜神事についてくわしく説明した文献として残っているものに、木下勝俊の「九州道の記」があります。この人は備中足守藩の2代藩主です。叔母は豊臣秀吉の妻北政所(ねね)です。後に弟と領地の事で争い、「長嘯子」と号して、京都に移って晩年は歌人として活躍します。 彼はの歌に
        ●あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれ
 等多くの歌があります。

 その彼の「九州道の記」(文禄2年)には、次のように、お釜殿の事が書かれています。一応、書き出しから全部書いてみます。

 「日かずをへつヽゆくままに、備中のくにきびの中山につきぬ。つれづれさのあまり、こヽかしこに見ありきはべりて、かのほそ谷川の辺にいたりて
        けふぞふる ほそ谷川の おとにのみ 聞わたりにし きびの中山
 その水上にのぼりてみれば、ちいさき池のなかより、たえだえ出る清水なりけり。かのしみず、みな月のころほひもたゆることなしといへり。その谷川ひろき篳篥というものヽながさばかりなむありける。その夜は、神主のいへにとまりぬ。」

 長嘯子がこの吉備の中山につ到着したのは、文禄2年(1592)ですから、その時には、ここ宮内は、まだ、あの不夜城を誇る山陽道随一の歓楽街はできてはおらず。宿場も辛川にあったと思われますが、先ず宮に参り、次に、歌人ですから、当然、心に懸けていたと思われる平安の面影を留めているだろうと期待して細谷川を訪ねたことだろうと思います。
 しかし、現実に眼にした川は、こわいかに、その幅はたった篳篥ぐらいしかないではありませんか。小さい池から細々とです清水がちょろちょろと流れ出ているに過ぎません。。
 これが昔から歌枕に詠まれたあの有名な川かと、驚くやらあきれるやらした長嘯子の心が“おとにのみ”と云う言葉として、この歌の中に生きているのだと思います。

 こんな事を考えながら読んでみると、やはりこの長嘯子の読んだ細谷川は、備前と備中の境を流れる両国橋のある所の谷川ではなく、今、言われている吉備津神社のすぐ南側を流れている川だと思います。なお、まだ、彼は、此の時には足守藩主になろうなんてことは夢にも思ってない時のことなのです。


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