私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

教育県岡山の基「郷校」

2010-01-07 10:26:53 | Weblog
 今年も、相も変わらず、あの飯亭寶泥氏からの新年のお叱りメールを頂きました。
 それによりますと、彼は、新年早々、私のブログを見たからではないでしょうが、後楽園へと足を運んで、改めて、延養亭の鶴などの十景を見て、最後に、章政侯が撰した永忠の遺績碑を一瞥してきたのだそうです。
 「今、おめえがしょうらしゅうけえておる、置岡山閑谷両黌のさきー『毎郡興郷校』というのがあろうがなあ、どげんして、こりょうかかんのじゃ。けえが教育県岡山といわれとる基となっとんのお、おめえはしらんのか。ようかんげえてみいや」 
 と、言われるのです。
 
 その通りです。この一文が「置岡山閑谷両黌」の前にあるとは知っていましたが、あまりに永忠についてのブログが長くなると思い飛ばしていたのです。
 やっぱり書かなくてはならないのかなとも反省して、今日はそれに挑戦してみます。

 毎郡興郷校ですが、「郷校」または「郷学」と呼ばれ、藩主や代官などが武士の子弟や庶民の教育の為に地方に設けた学校を云うのです。
 わが国で、最も早く、此の庶民の為に設けられた学校、郷学が作られたのは、池田光政侯による、岡山藩内の手習所なのです。それほどの歴史的な価値がある制度だったのです。これが、寶泥氏が言う、「教育県岡山」の名を高めさせる基となった事には違いありません。
 前に上げた閑谷学校も、最初は、此の手習所からスタートしたと言われています。

 岡山藩の記録によりますと、此の光政侯による手習所は、寛文8年(1667年)に各郡に、大体5~6村に一か所の割合で建てられ、藩内には、全部で123ヶ所設けられたのです。そこの師匠は、一か所に一人当り置かれて、全部で129人いたのだそうです。村内の庄屋の子弟、神職、医者、稀には浪人などもいたようです。
 なお、師匠の中には、普通一般にどこでも多くみられたお寺の僧侶は、この岡山の手習所には一人もいませんでした。光政侯の仏教嫌いが、この辺りにも色濃く出ているのは大変興味深い事でもあり、岡山だけにしかない特色でもありました。