私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

伯継の声名藉甚

2010-01-30 13:03:39 | Weblog
 「声名藉甚」、こんなへんてこりんな文字が、清水臥遊隠士の書、「蕃山了介先生事跡」の中に出てきます。私には始めて目にする文字です。又、例の珍聞漢文先生のご高説を賜ろうかとも思ったのですが、彼も寄る年波、風邪をこじらせたという事で、広辞苑のお世話になりませいた。
 ありました。「声名」というのは[よい評判]のことで、「藉甚」は[名声の盛んに世に広まる]という意味だそうです。

 これは慶安2年31歳の時に、藩主光政侯に従って江戸に下った時の話として出ています。
 「・・・公に従ひて江戸に行く、声名藉甚にして、道を慕う人多し紀伊大納言頼宣卿、宗室の尊を以て、先生を敬礼し、送迎門に及ぶ・・・・」と書いています。それに続いて、伊豆侯信綱、板倉重宗、久世広之、松平信之、掘田正俊、板倉重矩等の当時の幕閣達の名が連ねられています。更に、「・・・その門に遊ぶ人枚挙すべからず。」とあり、その他、多くの大名や旗本の名前も挙がっております。
 
 なお、この中にあります「宗室の尊」とはどういう意味かよく分かりません。徳川本家と伯継、もしくは陽明学と、どんな関係があったのか知っているお方があれば教えて頂くと幸いです。

 前にも書いたのですが、例の由井正雪の事件に、岡山藩も関かわったのではという疑いがあったのも、この紀州侯と伯継との繋がりから起こったのではと言う気もします。此の事件は、結局、光政侯の夫人勝姫様のお陰で大事には至らなかったのですが、多少なりとも関わりがあったのではという思いが私にはしてならないのです。
 

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、この光政侯に従って江戸へ行って以降、岡山藩における熊沢伯継の存在が、急に、大きくなります。禄が300石から3000石と、一機に、10倍も加増された事からも分かります。10倍の加増です。破格の待遇です。この事は、一方では、藩の重役たちから相当なねたみを持たれる結果にもなったのです。
          

 なお、この時は、まだ、彼は「熊沢助右衛門」と名乗っていたのですが、敢て、ここでは、「伯継」の名を使いました。「蕃山了介」は、この後、引退してからの名ですが、今では、[蕃山」の名が、一般的な彼の代名詞みたいな名になってつかわれています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿