私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

幸島新田

2010-01-17 12:15:28 | Weblog
 倉田新田に続いて、45歳の永忠が手掛けた藩営の新田が「邑久郡幸島新田」です。562町歩という広さでした。工事費は、米にして一万石で、此の費用も、やはり倉田新田と同じように、社倉米を使ったのだそうです。
 ここへの入植者は、計画では、領内の貧農の者を充てようとしたのですが、地代が高くてそれらの者には支払い能力が不足しており、計画通りにはいかなかったようです。結局、閑谷村などから入植を募って、ある程度の余裕のある農民を入植させています。

 これに続いて永忠53歳の時の「沖新田」の開墾があります。この時に造られた新田の面積は1540町歩の広さでした。この工事は元禄元年の正月に起こし、その年の7月には出来上がると言う速さでした。

 計画から完成まで極めて短期間で、1500町の広さを持つ干拓が、どうしてそんなに早急に出来上がったか不思議に思われます。
 多分、これらの地域が、地形的にも、干拓条件が大変に良かったという事も上げられるとは思いますが、事前の永忠の計画そのものが、しっかりとしていたのが一番の大きな原因だと考えられています。

 例えば、幸島新田の場合でも、次のような書きつけも残っています(池田家履歴略記)
 「邑久郡幸島新田開くべき旨津田十次郎図此を以て去年天和三年十二月十九日言上しければ早々普請すべしと正月十日仰有て諸役を定める」

 更に、この中には、六か所の築切堤奉行を決めたりに、諸道具請払届松木伐り方共、日雇請払見届、医師、諸買物値段極等の役人を定めた事が記されています。

 ここに見られるように工事区域を6箇所にはっきりと区切って、その責任者を明確にして、競争的ではないにしても、請け負わせた各場所で、責任者に独立した監督権を持たせて実施させったことが、早期実現が可能になった一つの原因ではなかったと考えられます。
 また、工事現場に医師を配するなどして、干拓人夫の精神的な働き安さを満たすような配慮が見られ、それも短期間で工事を終わらせた原因ではなかったかと思われます。