私の町 吉備津

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手習所の廃校

2010-01-10 10:41:27 | Weblog
 手習所が藩財政の逼迫に伴って全廃されたのは、出来てからわずか7年後の、延寶3年9月でした。
 この年は、また、あの岡山藩校も一時閉鎖の計画が、藩で持ち上がり、隠居していた光政侯のたっての要望で、それまでの年間予算2000石を500石に減額して、ようやく存続されるようになった年です。
 此の藩内各地に設置された123か所の手習所の一年間の経費は、一か所当り米40石だったそうですので、123か所全体の手習所にかかる金額は、現在のお金に換算すると、約1億円ぐらいになったのだそうです。相当の藩財政の高負担になり、廃止はやむを得ない措置ではないかと思われます。

 それにしても光政侯という人の、為政者としての先見性には驚かさせます。その点から考えると、後を継いだ綱政侯を、当時、「愚鈍なる大名・岡山藩主池田綱政」と江戸幕府が捉えていた情報もまんざら嘘ではなかったと言わざるを得ません。
 何せ、幕府政治と比較しても、遜色のない、目をみはるばかりの光政侯の政治的手腕に比して、如何に、藩財政の逼迫に伴う政策とはいえ、あまりにも綱政侯の短絡的な政治手腕に対する、単なる江戸城内での、軽い悪口みたいなものだったのではないかと思われます。
 「どうだ。それ見たか光政、お前の息子の取る政治あれは何だ。どう思っているのだ」
 という、一種の光政侯に対する嫉妬心というか、からかい心みたいなものとして作られた噂話みたいなものではなかったかとも考えられるのですが。

 現実には、この綱政侯というお方は、誠に、政治家としても、決して、父光政侯と負けないぐらいの、高い政治的手腕を発揮しています。
 教育・文化予算が、財政逼迫時には、まず、一番にやり玉に挙がるのは目に見えていることです。過去・現代のいずれの時代でも同じ事が繰り返されているのです。
 今日でも、ノーベル賞受賞者や歌舞伎俳優までも、予算獲得に乗りださねばならないような姿を、政治の中に、見ることが出来るのです。
 時代というものは、そんなに政権が交代したぐらいで、急激に進歩前進するのもではないのです。いつの世も同じことの繰り返しなのです。それが人の世の歴史でもあるのです