私の町 吉備津

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永忠は、ノ-ベル経済賞を受賞していたのでは

2010-01-23 20:06:00 | Weblog
 再び。、後楽園にある、池田章政侯の撰ぶ所の永忠の遺績碑に戻ります。
 「開墾幸島福浦沖倉田等」の次に、「及疏鑿倉安川」とあります。
 疏鑿、これは〈そさく〉と読みます、土地を切り開いて水や川を通すことです。碑文では「疏」という字が使われていますが「疎」という意味だと思います。

 さて、そんなことはどうでもいいのですが、永忠の業績の中で、新田開発と共に、この新田にはどうしても必要な用水の確保をどうしただろうかという問題が浮かび上がります。
 
 例えば、備中の「万寿の庄」新田や宇喜多堤による「早島・中庄」等の新田の開発には高梁川の酒津から取りいてた「八ヶ郷用水」が開鑿されています。
 
 永忠が行った倉田新田の為の用水として開鑿されたのが「倉安川」なのです。

 この倉安川は、当時の御休村吉井に水門を作り、吉井川から水を取り入れます。
 村の中央を西南に通し、角山村・雄神村を通り、芳野村浅越に至り芥子山麓を西流して芳野・可知の両村を経て富山村海吉に入り、そこから操山の山麓に沿うて平井村に入り、北折れして岡山にいたり旭川に合流する、総延長20km(5里)に及ぶ、人工川です。
 延寶7年(1673年)2月朔日から工事に入ります。貞享3年(1686年)には、それまでは新川と呼ばれていたのですが、この年になって倉安川と命名されています。それまでは物資の輸送は馬が中心だったのですが、此の川が出来たために馬の利用が少なくなり、それによって、馬の背にある鞍が不要になり、その為に馬の鞍が軽く安くなったという意味で「鞍安川」、それが「倉安川」になった元々の意味だという事です。
 この川の命名に関しても分かるように、この用水は、農業用水としてだけでなく、吉井川から旭川までの運河ともなり、物資の輸送等の運輸に関しても大変大きな役目を果たし経済的な効果を生む原因にもなっています。
 
 藩主光政侯は、ある時、江戸からの参勤交代の帰路、此の運河「倉安川」を、わざわざ利用して、船でお国入りした事があります。藩主自らが率先して、この倉安川を利用したお国入りは、此の川の宣伝に大きな影響を及ぼし、以後利用が急速に増大したということです。
 せっかく作った運河兼農業用水です。利用されて初めて、その効用が生かされるのです。宣伝のために藩主をも使った経済学者としての永忠の腕の見せ所でもあったのです。
 こんなことを考えると、永忠というお人は、日本では、未だかって誰も貰ってないノーベル経済賞を、当時、もしこの賞があったなら、真っ先に貰っていたのではと考えられるのですが????

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