私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

熊沢伯継

2010-01-28 09:36:33 | Weblog
 永忠の業績を訪ねていると、どうしても、熊沢蕃山こと伯継を無視して、岡山藩の政治をといいますか、光政侯の藩政を語ることはできません。そこで、時代的には永忠とは逆になりますが、暫く、蕃山先生にお付き合いください。
 
 先生の名は伯継といいます。初めは熊沢左七郎と、次に次郎八、助左衛門、蕃山了介と順次称して、最後に使われた名は息遊軒でした。号は蕃山、不敢散人、有終庵主など使っています。
 元和元年(1615年)京都の稲荷に生まれています。

 この伯継が16歳の時に、寛永11年、先生の遠族に当る板倉重昌等の薦めにより備前藩主池田光政侯に仕えます。この頃、大いに体を鍛えて、万一の変に備えたのです。
 其の辺りの様子を、永山卯三郎は、その「岡山通史」で

 「・・・体貌豊肥なり、自ら思えらく堅を被りて戦いに臨まば、恐らく馳駆するには難からんと、ここに於て滋味を斥け日夜武芸を演じ、宿直に当るも猶ほ深夜に之を習う・・・」

 と、書いています。ここからでも分かるように、最初は、武芸を以て仕えようと身体の鍛錬に励みます。
 
 寛永15年に、一度、光政侯の仕えを辞して、祖母の里、近江へ行きます。数年そこで独学していたのですが、当時、近江聖人と呼ばれていた中江藤樹の門が有名でした。そこに入門して己の学問を磨こうと思い立ち願い出ますが、どうしても許されず、仕方なく伯継は、2昼夜も、藤樹の家の軒下に寝泊まりして入門を請うたのだそうです。その余りにもの熱心さを見た藤樹の母が憐れんで、藤樹に入門を許すように計らってくれたのです。その御蔭で入門出来た伯継は、刻苦精励し、孝経、大学、中庸等を研鑽しします。約半年の間、藤樹からみっちりと教えを受け、更に、家に帰ってからも5年間、独学で勉強します。
 この間、伯継の家では、母を始め妹たちの面倒もよく見て、生活は窘窮だったのですが、少しも学を惰らず、自らを高めます。

 27歳になった正保2年、再び、京極高通の薦めにより、池田光政侯に仕えます。そして、隊伍士長となって300石を賜っています。