私の町 吉備津

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永忠の干拓事業が与えた社会的影響

2010-01-21 10:51:40 | Weblog
 千原九右衛門勝則の築堤技術の普及により大規模干拓が可能になって、岡山の平野には様々な干拓が行われます。
 その中で、備前の干拓は、岡山藩が中心となって藩営で行われた大規模なものでした。その為のに、藩の新田石高も、漸次増加していきます。
  
 寛永年間(1630年頃)から寛文年間(1660年頃)にかけては、大体2~3.4万石の新田石高があったそうですが、それが、永忠が関わった倉田・幸島・沖の新田開発の完成した貞享年間(1680年)頃から岡山藩の干拓が飛躍的に石高が増加して、石高も10万石を超えるようになり、藩の財政もそれだけ豊かになってきます。その後、一時、開発の停滞気味な時代もあったのですが、幕末の安政年間になると、出来上がった総ての新田から上がる石高は12万石を越すようになります。邑久・上道・児島地方の海に面した土地の干拓面積が広くなったからです。中でも一番多いのは上道郡の干拓で34万石にも達したそうです。

 このような新田開発による藩経済の活況化に、多分、影響されたのではないだろうかと思われるものに、寺子屋や私塾などの個人的教育施設の数を上げることが出来ます。

 日本教育史資料に、江戸末期に於ける各県の寺子屋と私塾の数字が出ていますが、岡山の数が他の県に比べて著しく多いのです。私塾の数は江戸末期には144か所もあったのだそうです。周りの県を比べても一段と多いのです。これなども、この干拓とまったく無関係ではないと思われます。
 生活に余裕がなくては子弟の教育等に関心を示すはずがありません。それだけ、岡山藩の人々の生活は経済的に豊かになっていた証拠です。

 岡山藩の、一般の人々の生活の豊かさを物語る、もう一つの例としてあげられているものに「渋染一揆」を上げることが出来ます。
 この一揆は、我が国の差別史の中で、特異な存在として、教科書にも取り上げられているのですが、その首謀者達、一揆の指導者が綴ったこの経緯や内容等を書いた文章など見ると、その人たちの十分なる教養の高さが伺われます。
 学問が藩の隅々まで、被差別にまで行き届いたためだと思われます。これも、藩の経済的な余裕が物語る一側面ではないかと考えられます。
 また、この一揆とは直接関係はないのですが、一揆の人たちに、途中で、水や食料を積極的に提供したある普通の農家の人がいたという記録も残っています。彼は、当時、邑久郡長船にある私塾に通っていた相当の教養人で、儒教をよくしていたのだそうです。差別とはなにか、人間とはなにかとか、深く考えていたと言われています。
 そんな余裕を持っていた人だったから、被差別民に対して、当時、誰でも持っていた差別意識を持たずに、人としての平等な接触をしたのだそうです。
 その人の孫に当たるお方よりお聞きしたお話です。

 これらは、総て、干拓による経済的な余裕と共に出来た塾などの成果が生み出したものであると考えられます。

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