私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

鬼について

2007-06-08 23:10:36 | Weblog
 松の落葉の中に『鬼』についての文があります。
 鬼は、『和名抄』の中にで「於爾」と書いたと言うことです。神代の時代は、鬼という文字を「もの」と読んだそうです。「もものけ」「ばけもの」即ち「術」(バケ)ある鬼(もの)だったそうです。また、どうも日本では、中国などにある「人死魂神」を鬼とは考えずに、荒ぶる神に「鬼」という字を宛てたらしいことも、古書に記されています。
 私事(ひとりごと)
 日本武尊;彼の母は、吉備津彦命とともに吉備の国を平定したその弟君「若日子建吉備津彦命」の長女「播磨稲目大郎媛」(ハリマノイナメノオオイラツメ)です。この媛が、時の景行天皇のお妃になりお生まれになたのが日本武尊(ヤマトタケルノミコト)なのです。一方『若日子建吉備津彦命の長男が御鋤友耳建日子彦(ミスキモトミミタネヒコノミコト)です。その御子(ミコ)に大郎媛、吉備武彦、雅郎媛の3人ががいます。
 後、この吉備武彦は、日本武尊が蝦夷征伐に行かれた時の副将になって獅子奮迅の働きをしています。
 なお、余り知られてはいないのですが、この日本武尊は、蝦夷征伐に行かれる前には、九州の熊襲征伐にも遠征されています。
 なお、この熊襲遠征の帰り、日本武尊はこの吉備の国に立ち寄っているようです。この時、彼は、この吉備武彦の子で、吉備の穴戸武媛を、彼の沢山の妃の一人として迎えております。
 年齢的にどうなっているの判然とはしませんが、要するに、吉備武彦は、日本武尊とは従兄弟同士で、しかも娘の義父(婿)にも当ります。
  
 なお、当時は「穴」と言うのは、「入り海」を呼んでいたようです。牛窓、西大寺、岡山、倉敷、吉備津、総社、玉島あたりまで入り込んでいたの海を「吉備の穴海」と呼んでいたと言うことからもわかります。

 その日本武尊が、熊襲征伐の凱旋されてる途で、吉備の穴済(今の福山市辺り一帯の入海)の『悪神』も退治しています(日本書紀)。この悪神も「鬼」だったようです。
 
 私事(ひとりごと);
 当時、この吉備地方を支配していただろう温羅一族は、天皇家にとっては、大和に刃向うにっくき敵だったのでは。そんな大和に対する反逆者はすべて、「悪神」として、大和の歴史書に記したのだと思われます。だから、考えてみると。温羅は、吉備人にとってはとてもありがたい人ではなかったのかと思われます。吉備地方に古くから住み着いていた人達だったかもしれません。稲作、製鉄技術、土木建築など最新の文明技術を持った渡来人の集団だったのかもしれません。鬼ではない、自分たちを生活を助けてくれる、護ってくれるありがたい守護者だったのかもしれません。そうでなかったなら。吉備津神社の神殿の中に(外陣)お祭りされることはないと思われます。鯉喰神社等と言う温羅(鬼)をお祭りするお宮が存在するわけがありません。
 時代は違いますが、日本武尊が退治されたとする「穴済悪神」も「温羅」と同じ大和に立ち向かう吉備の豪族だったと思われます。すべて鬼として歴史書扱われています。
 それにしても、吉備の国は相当強くて、当時、出雲と同様た征服するのに随分手こずったのではと思えますす。それに比べれば、他の蝦夷等は、余り苦労がなくて案外に簡単に征服できたので、歴史書に詳しく記載されているのではと思います。吉備や出雲との戦いが大変難しくて、複雑で大和の勢力が、一気呵成にやにむに攻め進むことが出来なく、時には大きく敗れ後退するようなこともしばしばあったと思います、そんな記録は、大和にとっては記録(史書)に書くことは恥で、詳しくは書かず、簡単に「退治した」としか記録に残こさなっかたのではと思えます。

 まあともかくも、『松の落葉』によると、この「鬼」を、あらぶる神、鬼、天狗、こだまなどすべてに対して言っていたようだと書いています。
 世に優れて賢いのが『神』で、恐ろしい形をして、人を襲い、命や物を奪い取る者を『鬼』といったようです。消えたり飛んだり自由自在に妖怪変化して、人に危害を加えるものを総て呼んでいたようです。
 このような「鬼」の話は、源氏物語、宇津保物語、三代実録、大鏡等の書物に出ています。恐ろしいおどろおどろした世界です。

 さて、この「おに」はどのようにして防げばよいのでしょう。それについて、高尚先生は答えられています。
   
気が付けば、深々と、夜も更けてまいりました。そろそろわが目もうとうとしだしました。
 取りあえず今晩はこのくらいにして、では、又、明晩、このブログにて、あなた様と、お逢いしとうございます。
 とりあえず、おやすみなさい。