私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  118 藤井高雅と細谷川⑥

2009-03-12 13:39:43 | Weblog
 さて、この弘化3年に、なぜ、野之口隆正は、ここにこんな石碑を立てたのでしょうか。
 この人は、古今集にある「細谷川」が、吉備の中山から流れだしていて、備前と備中の境を流れていると、当時から地元の人々の間で言われているのを十分に知っていたにもかかわらず、敢えて、吉備津宮の南を流れている川を「細谷川古跡」としたのです。
 その根拠は、この石碑の裏側に書かれている文から窺い知ることができます。
 「・・・大君のみかさのやまという、ふるうたをひかへてうたえるものならんかし・・・・」
 そうです。細谷川は、本来は、奈良の都を流れている川(佐保川)を読んだ歌なのです。それを本歌取りして作られた完全なる盗作の歌なのです。だから、「ここが本当の細谷川だなんて言い争っていること自体が間違いの元なのです。そんなことより、この谷川の音のさやけさに、心をとどめてほしいものだ」と、強く戒めを込めて、ここにあの石碑を建てたのではないかと、私は想像しています。

 なお、この弘化3年と言う年は、その前の弘化2年11月2日に、藤井高起らの努力で、御社殿のお屋根の吹き替え工事が完了して「上棟祭」が行われています。その一環としての事業であったと思われます。
 この野之口隆正は、出雲出の、平田篤胤のお弟子さんでした。
 平田篤胤の弟子と言えば、高起の17歳の元服式の時に、烏帽子親を務めた堀家佐渡守富政も、若き日に江戸で平田篤胤の弟子になって国学の勉強をしています。隆正と富政は、きっと、一緒に勉学にいそしんだ仲ではなかったかとも思われます。
 記録には残ってはいませんが、偶然に、この宮内の吉備津宮を訪ねた野之口隆正が発案したのか、それとも、高起など備津神社社家頭の人たちが隆正に依頼したのかはわかりませんが、敢えて、ここに「弘化の上棟祭」の記念事業の一環として、この石碑を建てたのではなかろうかと想像をしてみました。
 でなかったら、あんな立派な石碑が吉備津神社の一角に建つなんてことはでっきこありません。

 後世の歴史家の中には、そんな関係を知ってか知らずか、「隆正、細谷の位置を誤まてり」と、鬼の首でも取ったかのように、早合点する人もいるようです。

 なお、余談ですが、藤井俊岡山大学名誉教授は、この細谷川の位置について、次のように説明されています。

 「・・・・この細谷川は吉備の中山の山顚より分かれて東西に二渓流をなし、恰も、この山を帯にせるが如く山を廻って麓に注いでいる。・・・・・」

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