さて、高尚が引退して、その跡目を高雅こと高起が継ぎます。天保6年のことです。
高起は弱冠17歳でした。吉備津神社の社務として働き、家にあっては高尚の指導のもと国学の研究に精進します。
そんなある時(正確には天保8年です)高尚の知っている安藤野雁という若い俳人が宮内を訪ねております。
その野雁から、師匠にあてた手紙が残っています。その中に
「・・・・高尚翁は74歳にて疾くに隠居、子息は早世、名は左衛門と申す当主有之、希代の美男才発にて御座候。・・・」
と書いています。
「稀代の美男才発」とは、19歳の高起にほかなりません。
その翌年天保9年に、この高尚は中風になっています。そして天保11年に、ついに高尚は高令を持って大往生を遂げます。
高尚歿後、高起には吉備津神社の社司として、また、松ノ屋の主人として責任が重くのしかかります。
その時、高起と言う名前を「高枝(たかえ)」としています。その次の年、即ち天保12年に高枝の養母である高尚の子「高豊」の妻であった美禰が42歳で病死しています。
青年時代の高枝は、23歳の時に吉備津神社の御祓箱を将軍家に献上する役目を仰せつかって、立派に果たしています。また、弘化2年には、27歳で従五位下下総守に任じられております。
特に、将軍家に御祓箱を献上する儀式は厳重なしきたりがある大役なのですが、若冠23歳にもかかわらず勤めおおせたということは、それだけの器量が備わっていたからだと思われます。「美男再発」と言われだけのことはあると思います。
なお、天保6年から吉備津神社では御社殿のお屋根替えが行われていますが、その費用を作りだすにも大いに努力したと言われています。弘化2年には完成しています。
なお、これは余談ごとですが、あの野之口隆正が「細谷川古跡」の石碑を立てたのが弘化3年です。
これについてはまた明日にでも。
高起は弱冠17歳でした。吉備津神社の社務として働き、家にあっては高尚の指導のもと国学の研究に精進します。
そんなある時(正確には天保8年です)高尚の知っている安藤野雁という若い俳人が宮内を訪ねております。
その野雁から、師匠にあてた手紙が残っています。その中に
「・・・・高尚翁は74歳にて疾くに隠居、子息は早世、名は左衛門と申す当主有之、希代の美男才発にて御座候。・・・」
と書いています。
「稀代の美男才発」とは、19歳の高起にほかなりません。
その翌年天保9年に、この高尚は中風になっています。そして天保11年に、ついに高尚は高令を持って大往生を遂げます。
高尚歿後、高起には吉備津神社の社司として、また、松ノ屋の主人として責任が重くのしかかります。
その時、高起と言う名前を「高枝(たかえ)」としています。その次の年、即ち天保12年に高枝の養母である高尚の子「高豊」の妻であった美禰が42歳で病死しています。
青年時代の高枝は、23歳の時に吉備津神社の御祓箱を将軍家に献上する役目を仰せつかって、立派に果たしています。また、弘化2年には、27歳で従五位下下総守に任じられております。
特に、将軍家に御祓箱を献上する儀式は厳重なしきたりがある大役なのですが、若冠23歳にもかかわらず勤めおおせたということは、それだけの器量が備わっていたからだと思われます。「美男再発」と言われだけのことはあると思います。
なお、天保6年から吉備津神社では御社殿のお屋根替えが行われていますが、その費用を作りだすにも大いに努力したと言われています。弘化2年には完成しています。
なお、これは余談ごとですが、あの野之口隆正が「細谷川古跡」の石碑を立てたのが弘化3年です。
これについてはまた明日にでも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます