賀陽氏の初めは、大吉備津彦命と共に吉備遠征に参加した、弟君、若日子建吉備津日子命の後です。この命の四代の孫「仲彦」が応神天皇から『加夜国造』に封じられます。これが賀陽氏の始まりです。
この「かや」という音が、加夜・蚊屋・香屋になり、賀陽になったようです。先にあげた、茶祖「栄西」もこの賀陽氏の出です。舒明天皇の貞淑な妃「蚊屋采女」もやはり賀陽氏の出です。
これら賀陽氏は、朝鮮半島から移り住んだ「伽耶(かや)」の人たちと何らかの関連あるのではないかと考えられています。
この賀陽氏が後に、吉備津宮の神主になり、この地方をも統治したようです。
ちなみに、記録に残るものとしては、『称徳天皇の御代、天平神応元年六月に、賀陽臣小玉部という吉備津神社の神官が、賀陽朝臣の姓を賜った』と、いう記事があります。(三代実録より)
そんな「加夜」という字の付いた地名やお宮が、吉備以外の土地にあるなんてて、目からうろこでした。その上、「栢森(かやのもり)」という地名まで見つけることが出来て僥倖でした。
この「かや」という音が、加夜・蚊屋・香屋になり、賀陽になったようです。先にあげた、茶祖「栄西」もこの賀陽氏の出です。舒明天皇の貞淑な妃「蚊屋采女」もやはり賀陽氏の出です。
これら賀陽氏は、朝鮮半島から移り住んだ「伽耶(かや)」の人たちと何らかの関連あるのではないかと考えられています。
この賀陽氏が後に、吉備津宮の神主になり、この地方をも統治したようです。
ちなみに、記録に残るものとしては、『称徳天皇の御代、天平神応元年六月に、賀陽臣小玉部という吉備津神社の神官が、賀陽朝臣の姓を賜った』と、いう記事があります。(三代実録より)
そんな「加夜」という字の付いた地名やお宮が、吉備以外の土地にあるなんてて、目からうろこでした。その上、「栢森(かやのもり)」という地名まで見つけることが出来て僥倖でした。