日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

夕べの礼拝・主の食卓を囲んでのご案内

2019-12-06 08:42:12 | 教会案内

日 時 12月8日(日)午後6時-7時半 

みなさまこんにちは。

 

クリスマスを待ち望んで過ごすアドヴェント(待降節)の月に入りました。

今月の夕べの礼拝も予定通り行います。


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝です。

気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


お気軽にいらしてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神からの恵み

2019-12-01 17:38:18 | メッセージ

主日礼拝宣教 ルカ1章2638節 アドヴェントⅠ

今日の箇所はエルサレムから約100キロ北に向かったガリラヤの地ナザレでの出来事です。そこに住む10代半ばであったであろうと言われる少女マリアのところに天使ガブリエルが遣わされ、マリアが「救い主の母」となる事とが告知されるのであります。昔からこの物語は「受胎告知」と呼ばれ、特に西洋の名画の題材に選ばれてきました。皆さんもおそらく、そのように題された絵をご覧になったことがあろうかと思います。
また、このエピソードは音楽の世界にも大きな影響を与えました。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方」と祝福の言葉をかけていますが。これが「おめでとう、マリア」、ラテン語では「アヴェ・マリア」と言う、あの大変美しいメロディーの名曲となったのですね。

天使はナザレの町に住むマリアに現れてこう告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」それは、マリアが救い主イエスを身に宿すという告知でした。マリアにとってみれば、あまりに突然のことで、さぞ驚いたことでしょう。けれどもマリアが驚き戸惑ったのは天使が現れたからではありませんでした。29節「この言葉に戸惑い」と書かれてありますように、マリアは思いもよらない天使のその言葉に戸惑ったのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」といきなり言われた事に、マリアはこれは一体何のことかと考え込んだのです。天使は、そのようなマリアの戸惑いを見逃すことなく、すかさず「おめでとう」の内容を説明いたします。3031節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

「神から恵みを頂いた」というのが、その理由だというのです。まあ、普通そう考えるなら、何ら疑問もなく、それは祝福されたこととして思うわけですが。しかし、その恵みというのが「あなたは身ごもって男の子を産む」という、10代半ばの未婚の少女にはあまりに衝撃的な告知であったのです。

天使は「恐れることはない」と言いますけれども、マリアにとってこれほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時ヨセフと婚約しておりました。結婚の祝いの日を控えていたのです。ユダヤ人として、質素であって敬虔で幸せな家庭をヨセフと共に築いていくことを決意していたに違いありません。しかし、この天使のお告げは、マリアの平凡でささやかな夢を打ち砕いてしまうような内容でありました。

第一そんな、身に憶えのないマリアには何かの間違いではないかとも思えたことでしょう。彼女も「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるほかなかったのです。このマリアが抱いた「恐れ」は、「自分が預り知らないうちに子を宿すという到底あり得ないことを告知された恐れでした。又、婚約者ヨセフのこと、世間からどう思われるか不安になったのでしょう。そしてマリアは当時の者会からすれば人の数にも入れられない小さな存在としか見なされていませんでした。48節で彼女は「身分の低いこのはしためにも目を留めてくださった」と主を賛美していますが。「偉大な人、ダビデの王座に与る方」を宿すなど畏れ多いことだという大きな戸惑いもそこにきっとあったことでしょう。
ヨセフとの結婚は破談になるかも知れない。実際にこのことでヨセフも非常に思い悩み苦しみました。そこは来週の礼拝で詳しく読みますので今日は割愛させて頂きますが。まあ、マリアにとって天使は、彼女が夢にも思わなかったまさに想定外の人生を携えて来たと言えるでしょう。

これらの後、天使が告げた通り、マリアに男の子が産まれます。ところがヘロデ王の幼児殺害の命令によって、マリアは「イエス」と名付けられたその子と共に遠いエジプトに逃れ、再びナザレに帰ってくるのです。そしてイエスさまがいよいよ「神の国を宣べ伝える」と言うことで家を出て行かれるんですね。ユダヤ社会からのけ者にされていた徴税人や罪人とされていた人たち、汚れているとされていた病人や異邦人などと交流し、ユダヤの宗教的な指導者たちや権力者たちから目をつけられ、反感や妬みを買い、母であるマリアもいろいろ言われたりと、心配は尽きなかったでしょう。そして最後は、マリアは自分の息子が鞭で打ちたたかれた体で、十字架に磔にされて殺されていくのを目の当たりにする事になるのです。そのような人生を、マリアが全くもって想定していなかった人生を、天使はこの当時まだ10代半ばのマリアに携えて来たのです。

天使は、マリアに対して「この度、神さまがメシアを誕生させるにあたり、多くの女性の中からあなたが選ばれまして、出来れば、あなたの胎を用いたいのですが、よろしいでしょうか?」と、伺いを立てに来たのではありません。それはマリアの意思とは関係なく、それを超えてマリアのもとに訪れたのです。ところで、多くの方はこの受胎告知のところを聖書の中の物語として「寓話」や「お伽話」のようなものとして聞いているかもしれません。降誕劇で子どもたちが演じるような何か美しい話。そういう風に感じる方も多いと思います。

私も小学4年の幼い頃から教会に通っていましたので、教会学校の先生たちがクリスマスの時期になるとよくこの話を聞かせてくれました。私も教会学校でクリスマスの時期になるとページェント・降誕劇も演じましたから、内容はよく覚えているのですけれども、その時は自分の事、自分の人生とは関係のない話だと思っていました。けれどもその私にも、「救い主があなたと共におられる」という御言葉が語られ、高校1年の時に主イエスを私の救い主として信じて、バプテスマを受けました。それからの人生、ほんとうに思いもよらない展開の連続で、しかもそれは神さまのご計画によって持ち運ばれて来たなあ、と思えるんですね。

私たちの人生は常に自分が思った通りに展開していくでしょうか。そんな事はないと思います。想定外の事はいくらでも起こりますよね。時として、自分の意思とは関係なく出来事が起こり、それに翻弄されてしまうというようなことがあったりと、そうして人生が動いていくというようなことが、私たちにもあるのではないかと思うのです。ヘンな言い方ですが、クリスチャンになったからには「こんな人生如何ですか」と、前もって打診されるなんてことはありません。自分の意向とは関係なく一方的に与えられるのです。それは基本的にはこのマリアと同じだと思います。          

そう考えますと、聞き捨てならないのは天使のお言葉です。先に申しましたような人生をこれから担っていこうとしている彼女に、「おめでとう、恵まれた方」と言われる。なんてことを言うのか、とも思えるでしょう。願いもしない人生を運んで来て、それで「おめでとう」と言う。もし初めからわかっていたなら「おめでとう」なんて冗談じゃない、とんでもない、と思えます。

けれども、ここが大切だと思うのです。天使は冗談は言いません。真面目に「おめでとう」と言っているのです。そして、実際に天使のお言葉はどうであったのかを考えてみますと、どうでしょうか。マリアは不幸な人として生涯を閉じたでしょうか。 マリアは不幸な人として語り継がれているでしょうか。いや、そうではありませんね。確かに、救い主の母としてマリアは苦悩に満ちた人生を歩みました。しかし、彼女は不幸な人として一生を終えたのではありません。先に触れました「アヴェ・マリア」の曲が今日にあって多くの人々の心を捉え、マリアをして「恵まれた者、おめでとう」と歌われ続けています。                                         

苦悩に満ちたマリアの人生であっても「おめでとう」と言えるのは何故でしょうか。天使のお言葉には続きがあります。
天使は「おめでとう、恵まれた方」と言った後、このように続けました。「主があなたと共におられる」。そうです。「主が共にいてくださる。」それが大切な事なのです。主が共にいてくださるという事は、神さまがすぐ側に待機していて、困った事があった時、呼べばすぐに飛んで来てパパッと解決してくれるという事ではありません。そうではなく、主なる神さまがご計画をもて私たち一人ひとりを選び、それぞれの人生に神の栄光、愛と救いが顕わされるようにしてくださる。     

この私の人生を御目に価値あるもの、尊いものとして用いてくださるということなのです。                                       マリアは46節以降で、今日の礼拝の招詞のお言葉もその一部ですが。神を次のように賛美しています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」

共におられる主が、この私の人生を価値ある者として日々導いてくださる。そうであるならば、私の人生のどんな局面も、たとえ苦難があったとしても、たとえ自分が望んだように人生が展開しなかったとしても、辛く、悲しい過去があったとしても、それは必ずしも不幸を意味しない。不幸な人として一生を終えるものではないのです。どんなに苦悩に満ち、又、人の目には不条理に囲まれたように見えるものであったとしても、神さまがその人生を用いて、その栄光を顕わしてくださる。私たちの一生は本当に価値あるものとされているのです。そうであるならば、私たちの人生において見失ってはならない最も大切な事は、「主が共にいてくださる」という神さまからの恵みなのです。ここが本日のメッセージの中心です。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

今日はマリアの受胎告知の御言葉から聞いてきました。天使の「神にできないことは何一つない」との言葉に、マリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答え、信じて受け入れました。それ故に、マリアの人生は主が共におられた人生、主に用いられ、主の恵みに満ちた人生としておぼえられ、「おめでとう、マリア」(アヴェ・マリア)、「恵まれた人」として歌い継がれるようになりました。

しかしこの天使のお言葉は、マリアだけでなく、今日ここにいる私たち一人ひとりにも語りかけられているのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」この神さまからの恵みの約束を、マリアに倣いしっかりと受け取って、私たちの人生をお用いになられる神さまのみ業に期待しつつ、今日もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする