日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

親子ひろばへ集まれ!

2019-12-08 21:18:37 | お知らせ

少し早めのクリスマスをします。


☆日時 12月11日(水)

 

☆時間 午後3時~7時

 

☆場所 大阪教会の2階ホール


☆メニュー すき焼き丼、スープ


☆参加費  こども 50円

      親・おとな 200円


今回はとくべつなクリスマススペシャル!

みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。


おいでや!

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一緒に生きる

2019-12-08 14:57:04 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ1章18~24節 2019/12/8 アドヴェントⅡ

すでにニュース・報道で大きく伝えられておりますが。先週、ペシャワール会代表の中村哲先生が襲撃に遭いお亡になったという大変ショッキングな情報が伝わってきました。先生は青年時代は香住ヶ丘バプテスト教会で過ごされ、その後海外医療の働きをパキスタンでしばらく始められたということですが。その内多くの難民の人たちが飢餓や貧しさで病気になり亡くなっていくその現実を目の当たりにされる中、先生は「医療では人は救えない」ことを痛感され、まず人が生きていくためには「きれいな水」が必要だということで、ご自身医師でありながら自ら乾ききった大地に井戸を掘るというプロジェクト(ペシャワール会)を立ち上げられ、貧しく小さくされた方々の傍らにあって、現地の人々と今日まで「一緒に生きる」道、信頼の絆をひたすら紡いでゆくことを貫き通してこられました。私も礼拝で「井戸を掘り続ける男」と題して先生のことを重ねながら話をさせて頂いたこともありましたが。その井戸がいくつも掘られて通り、そしてやがて先生自ら作業車を動かさしたりされるなか、農業用水が引かれ、現在は旱魃で乾ききっていた大地が緑の麦畑によみがえって、多くの現地の人々のいのちと生活を守るためにそれが豊かに用いられるようになってきたのです。最近では大きなNGO団体の協力も得られるようになっておられたようですが。私も18年くらい前に西南学院中のクリスマスの特別講演会だったか、中村哲先生のお話をお聞きする機会があり、大変感銘を受けました。その前後でした、テロ撲滅の名のもと解体されたアフガニスタンに、日本の自衛隊を派遣することに関して、国会の参考人として先生が証言なさった事の中で、「それは百害あって一利なし」とおっしゃったことが今も脳裏に焼きついております。武力によって平和は築けない。現地の人たちとの信頼関係こそ平和貢献だという信念を貫いてこられました。が、こうした形での最期となられたことについては、残念な思いでいっぱいになりますが。そのお働きはこれからも必ず実を結び続けると期待し祈ります。深いご心痛の中にあるご家族のうえに神さまの深い慰めとお支えをお祈りいたします。

本日は、先ほど読まれましたマタイ1章18-25節より、御言葉に聞いていきたいと思います。                                      イエスさまの降誕物語はマタイ福音書とルカ福音書だけに出て来ます。ルカ福音書には先週礼拝で読みましたとおり、天使ガブリエルによる「マリアへの受胎告知」が書かれていますが、このマタイ福音書では夢の中で現れた天使による「ヨセフへのイエス・キリスト誕生の告知」として書かれているという特長があります。今日はそのエピソードを丁寧に読んでいきながら、聖書のメッセージに聞いていきたいと思います。

18節 「イエス・キリスト」の誕生の次第は次のようであった。」「イエス・キリスト」という名称を使うのはマタイ福音書の中では、この1節と18節だけです。キリストとはメシアのギリシャ語訳であって「救い主」という意味です。マタイはメシア、民を救う王を待ち望んでいたまあユダヤ人に向けて記された書物です。それで、イエスこそキリストである、救い主であるという信仰の宣言をイエス・キリストという名称で言い表わしているんですね。マタイ1章はキリストがマリアから生まれ、その夫ヨセフは遡ればダビデ王の子孫、信仰の父祖であるアブラハムである。まさしくキリストの父として選ばれるに価する人物であると、血筋を重んじるユダヤ人に訴えているように思えます。そのヨセフは正しい人であったとあります。聖書で「正しい人」というのは神を畏れ敬い、ユダヤ人として律法を忠実に守っていた人であったということです。

18-19節「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

ここでは夫ヨセフと書いていますが、二人はまだ婚約中でした。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていました。この当時のユダヤ社会では、たいてい12、13歳の少女と18歳~24歳くらいの青年が婚約していたそうです。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったともいわれています。又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経れば、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったということです。ヨセフとマリアの二人はその婚約期間にあったのです。                   

ところがヨセフは、婚約者であるマリアが一緒に暮らす前に、妊娠したことを知ります。自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、神の前に正しい人であろうとするヨセフをどんなに失望させ苦しめたことでしょう。

聖霊によって赤ちゃんが出来たと言われても、そんな事が起るなんてというにわかに信じがたい。まあこの時点ですべてを放りだしたとしても当時の常識からすればおかしくはなかったかもしれません。ただ、結婚する前に赤ちゃんができたと知れたら、マリアは罰を受けます。姦淫の罪は死罪です。マリアがおなかの子と共に石打に遭うなど可哀想で忍びない。一方で、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いた女性を迎え入れることなど出来ない、ともうそれは考えに考え、悩み抜いたことでしょう。裏切られたことの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の情や良心の板挟みの中で、さんざん悩んだあげく彼が出した答えは、「表ざたにしないで、ひそかに縁を切る」というものでした。それがマリアとおなかの子を守るために下した、ヨセフの正しい人としての結論だったのです。私たちも又、神を畏れ敬うがゆえの思い、情や立場などの狭間でなかなかこれといった答を見出せず悶々とすることがあるのではないでしょうか。クリスチャンとなった、信仰をもったから明確な答があるかということではないのです。まあ律法、戒めははっきりとしています。「これはすべき」「これはしてはならない」。しかしそこには裁きが伴います。だからヨセフは悩んだのです。

けれども、そうやってヨセフがマリアと密かに縁を切ったとしても、世間の目は時に残酷です。マリアと生まれてくる子の社会的立場は大変厳しいものとなるに違いありません。ここに人間ヨセフの正しさの限界がありました。いったい人をほんとうに生かす正しさとは何でしょうか。離縁の決心をしたヨセフに、その夜、天使が夢に現れてこう告げます。

20節『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

 ここで主の天使が告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」ということです。それは実に明快です。神のご計画はもうはっきりしていました。ところで、夢というのは「神のお告げ」の手段であるわけですが。ここでなぜマリアには天使が姿を現したのに、ヨセフには夢の中なのだろうかと思ったりもいたしますが。まあ夢と聞くと、創世記の中に出てくる「夢を解くヨセフ物語」を思い出します。礼拝でも以前読みましたが。エジプトのヨセフは神から与えられた夢を兄たちに話したためにエジプトに売られて牢獄にいましたが。王の夢を解き、大臣となってエジプトを飢饉から救い、父ヤコブ、その名「イスラエル」を呼び寄せて、彼らが飢饉で滅びることから救ったという物語です。自ら苦難を受けながらも、民、同胞を滅びから救ったということで、ヨセフは旧約聖書における救いの王、キリストの雛型といわれています。イエス・キリストは弟子や自分の民から裏切られて苦難を受け、殺されてよみにまで下られましたが、そのことによってイエス・キリストを救い主と信じるすべての民の罪を贖い、滅びから解放を与えてくださったのです。又、その復活によって死を打ち破り、私たちを絶望から救い出してくださいます。先にも申しましたように、マタイ福音書はユダヤ人に向けて書かれていますが、ユダヤ人はこれを読んだ時、エジプトのヨセフを思い出したはずです。夢を解いたヨセフのように、神のお告げを信じ行動したヨセフに倣って、あなたも神の言葉を信じない者にではなく、信じる者になりなさいと勧めているのだと思うのです。                                               

さて、21-22節「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

マタイによる福音書はこの出来事が、預言者イザヤの書7章14節に書かれている「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」の実現である、と伝えます。その昔、イスラエルが南北に分かれていた時、北イスラエル同盟軍がエルサレムの町を攻めてきました。動揺するアハズ王に「神が必ずエルサレムを守るから安心していなさい。何かしるしを求めなさい」と預言者を通して言われたのに対し、アハズは「わたしは求めない」といって、神のしるしを求めませんでした。このアハズ言葉には、目前に迫る現実の恐れと神の言葉に対する不信が感じられます。そんなアハズ王にもどかしさを覚えられた神さま自らアハズ王に「しるし」を与えたのです。それが「おとめが身ごもって男の子を産む」というものでした。その名はインマヌル「神が我々と共におられる」という意味です。そのしるしをしてエルサレムの民は守られる。同じようにマリアが身ごもってインマヌエルである男の子を産むことは、神が信じるすべての人と共におられ、必ず救ってくださるというしるしだと、今日の聖書は告げているのです。           

人間が神を信じなくても、神は一方的にイエスさまをこの世に救い主として送って下さり、必ず御自分の民を罪の滅びから解放し、守られる。その神のご計画の始まりがイエスさまの誕生に関するインマヌエルの預言なのです。「聖霊によって宿る」ということも、イエスさまの誕生は、人間の力ではなくて神の力による出来事であることを示しています。初めの18節にも、同様にマリアが「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とありますが。これも神のご計画の中で聖霊がマリアに臨んだということです。    先週はルカの福音書から「マリアの受胎告知」の記事を読みましたが。その中でも主の天使がおとめマリアに「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられます」と語りかけていました。今日のマタイの「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」という神さまのお約束。それはルカで「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる」と、マリアに個人的に呼びかけられ、お語りになられたものとは違い、「神が我々と共におられる」、神さまは私たちと一緒にいてくださる」という、私たちに向けられた呼びかけ、語りかけなんですね。それは、神の救いが単に個人の枠にだけでなく、神の救いと解放を願い、待ち望む「わたしたちと共に」ということなのであります。アーメンであります。私たちも今日こうして神の救いを仰ぎ見ながら、神さまが私個人だけでなく、私たちと一緒にいて下さることを覚える中で、アドヴェントを過ごしているわけです。今日のこのヨセフにとっても身近な「私たち」とは、誰でしょうか。マリアとその胎内に宿した新しい命(イエス)でありました。ヨセフはマリアとイエスと「一緒に生きる」。まさにそこに、主が共におられるのです。

24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」

「眠りから覚める」。「眠る」というのはよく不信仰の代名詞として聖書では使われます。一方、「目を覚ましていなさい」というのは神の言葉を信じなさいという意味でヨセフは自分の正しさにおいて自分は目覚めている者だと、もしかして思っていたのかも知れません。そうだとすれば、実は自分がそう思っているに過ぎなかったのです。しかしヨセフは神の言葉を受入れることによって、本当の意味で「目覚めた」のです。それは神の言葉によってヨセフの正しさは覆されました。彼は砕かれたのです。それはまさに聖霊のお導きによって与えられた決心でした。

私たちの人生は決断の連続です。信仰も、バプテスマも一つの大きな決断ですね。決めなければ前に進むことは出来ません。とはいっても、何が正しいのか。何を選んだらよいのか。悩んでも考えて答が出ないということもあります。そういうことって意外と多いのかも知れません。ただ、私たちはヨセフがそうであったように、世の中や社会が期待するような「こうあらなければならない」「こうあるべきだ」という既成の概念や自分自身の考えに縛られるのではなく、神の言葉に聞きなさいと言われているのです。もちろんヨセフも「はいそうですか」と、簡単にその言葉を受け取ったわけではないと思います。厳しい現実の中で、それでも、主の言葉に立ってゆこう、イエスの父親になろうと決心したのです。その決心はヨセフの心に神が本当の平安をもたらしたと思うのです。クリスマスの物語は、ヨセフの人間的な正しさを越えた出来事です。ヨセフのもつ正しさとその決心を覆される神の義(ただ)しさが現される出来事だったということです。私たちはこの神の義しさに敏感でありたいものです。神は御言葉の招きをヨセフに与え、ヨセフはそれを受け取りました。この先どうなるか創造もつかないけれど、マリアと、おなかのイエスと一緒に生きてゆこう。そうして歩み出した時から、聖霊がヨセフをゆたかにお用いになり、神のご計画が実現されていくのです。どのような形であれ、神に用いられることほどゆたかな人生はありません。クリスマス。キリストの御降誕と全世界に向けた救いのご計画は、神の御言葉のお告げを受け取ったヨセフの決断、そして神の家族として「一緒に生きる」一歩を踏み出した時から、聖霊の力によって創められました。神の栄光の力、聖霊に満たされて、その救いのご計画に信頼をもって応える人生へと変えられる時、クリスマス。今日の聖書のお言葉を心に納めつつ、この礼拝から今週も遣わされてまいりましょう。

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