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一人ひとりと向き合う主イエス

2017-01-23 10:00:19 | メッセージ
宣教 マタイ9章18~26節

この箇所は、主イエスを介して、ある指導者(他の福音書によれはユダヤ教の会堂司のヤイロ)のエピソードに、長い間出血の止まらない女性の話が挟まれるような形で記されています。先の指導者は主イエスのそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願い出ます。
彼はユダヤ教の会堂を管理する地位のある人でありましたから、当然このような姿を、ユダヤの人々はじめ、律法学者や祭司に見られようものなら、異端視されたり、蔑視され職も立場も失う危機さえあったでしょう。けれどもそれを十分承知のうえで、彼は主イエスに「ひれ伏し」、なりふり構わず懇願するのです。我が身を投げ打つ親の愛を感じますが。彼はかねてより主イエスの言葉とその行いや業に強く関心を持っていたのではないでしょうか。そして、神がお働きになるのでなければ出来る事ではないという思いを強くしていたところであったのかも知れません。そのような時に起ったかわいいさかりの娘の悲しい死の出来事。他に望みのないこの人はただちに主イエスのもとに向かいます。教会もそのような存在としてあらねばと思わされますが。神の言葉が真に語られ、先週の主イエスの教え、隣人愛を地道に実践していく中で、救いを必要としている人、命の問題に直面した人が駆け込んで来る、そのようなキリストの教会でありたいと願います。
 聖書に戻りますが、そうして懇願する指導者の思いを受け、19節「そこで、主イエスは立ち上がり、彼について行かれた」というんですね。
主イエスはこの指導者的立場にあった人の、その切なる求めと信仰に応えれるべく「立ち上がる」のです。ここのポイントは、主イエスが会堂を管理する指導者だからとか、律法を守り間違えのない人であったから「立ち上がって」彼と共に行かれたのではないということです。そうではなく主イエスは、彼の信仰のゆえに「立ち上がられた」それが重視されているんですね。
 すると、そこへ、「12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れる」ということが起るわけです。どうしてそのような行動をとったのか、それはこの女性が『この方の服に触れさえすれば治してもられる』と思ったからである、と記されています。「思った」。それは信じたということですね。
 異常な出血はユダヤ社会においては古くから不浄な病とされていました。それは当人が不浄であると見なされるだけでなく、その人が触れるもの、またその人に触れるものまでも汚れると見なされていたのです。そういうことですから、彼女は人と関わりをもつことをはばかっていたでしょう。又彼女に関わりをもとうとする人も殆どいなかったでありましょう。この12年間もの病の苦痛とともに、偏見やあらゆる制約の中で生きていくしかなかった彼女の孤独は計り難いものがあります。それは当事者でなければ分からない苦しみです。
それでもこの女性は自分の思いを神は知ってくださるというまさに信仰をもって、人に
とがめ立てされないように、後ろから主イエスの服の房に触れたのです。

私はこの記事を昔初めて読んだ頃、この女性が後ろからイエスさまの服の裾の房にしか触れられなかったことを「消極的な信仰」と捉えていました。主イエスはそんな消極的信仰でも受けとめ、治されると思い込んでいたのです。しかしそれから何度もこの箇所を読むごとに、彼女の信仰は決してそんな消極的なものではなかったことがわかってきました。
「けがれている」とされているわけですから、正面から願い出ることはできません。
人と接触すれば人をけがすことにもなるという複雑な思いもあったことでしょう。けれども彼女はこの方の服の房にでも触れたならきっと事態が変わるに違いないと、その信仰を強くもち、気持ちを奮い立たせて行動するのです。それは、私のようなものが願ってもとか、私の問題は難しいから煩わすには及ばないというような消極的なものでは決してなく、むしろ大胆な求め、信仰であったんですね。この彼女の信仰、ある種の気迫に、主イエスは気づかれ振り向いて、彼女を見ながら「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると、その時「彼女は治った」。どうでしょう。主イエス御自身が「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるように、先の指導者もそうですが、主は私たちの信仰、信頼して仰ぎ望むその信仰に対して立ち上がり、振り向いて応答してくださるお方であることがここに示されているのですね。

さて、そのことが起っている間、先の指導者はどんなにじりじりした思いで待っていたか、とも思いますし、このことでさらに信仰が強められたようにも想像しますが。
ところが、主イエスが指導者の家に到着なさると、そこには笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいたのです。つまり少女の葬儀が始まっていたのです。当時のユダヤを含むパレスチナ地方では、どんなに貧しい家の葬儀でも、「笛吹きと泣き女」に頼んで来てもらう習わしがあったと言われています。世界各地で泣き女を招く風習があるようですが。主イエスはこの少女や家族への同情心のかけらもなく、ただ雇われて騒いでいるその人たちに対して「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。
このお言葉は、父親の気持ちと願いを代弁しているように思えます。「ああ娘は死んでいるんじゃない。眠っているだけだ」。それは父親の願い、叫びであったのではないでしょうか。そんな切父親の思いを全く意に介さない群衆は、主イエスをあざ笑った、とあります。それは父親の信仰、必死に訴え懇願する思いを打ち砕くものでありました。
主イエスは、そのことに強い憤りをおぼえて、群衆を家から追い出されたのです。
そして、他の福音書によればイエスさまは少女の両親と三人の弟子だけを連れて少女のいる家の部屋に入っていかれたようです。主イエスは神に望みをおくもの、信じ求めるもののみを伴われます。厳粛なその祈りと願いの中で、主イエスが少女の手をお取りになると、まるで目を覚ましたように「少女は起き上がった」というのであります。
主イエスの御言葉に心から信頼しる人は、主の御業を見ることができる。しかし、それをあざ笑う者には、躓きでしかないのです。

今日の礼拝の招詞でマタイ9章35-36節が読まれました。それは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記述です。
このイエスさまが「深く憐れまれた」というのは、自分のはらわたが引き裂かれる、断腸の思いをもたれるほどに、という意味なんですね。それほどまでに惑い、弱り、打ちひしがれる一人ひとりのことを主イエスは思われるのです。

それは、あの長血で苦しみ続けていた女性の訴え、求めを主イエスは不特定多数の群衆の中にあって、見出された。又、悲しみに打ちひしがれていた父親の切なる願いを主イエスは断腸の思いで共鳴なさったから立ち上がり共に行かれた。
そのように主イエスは、その愛と慈しみのゆえに私たち一人ひとりの課題や魂の渇きを知って下さるお方なのです。

主に見出され、救いに与っている者として、主イエスに倣いつつ生きていきたいと願います。今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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