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内側からの清め

2021-09-12 14:24:09 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル書36章22―32節 

 

パラリンピックも閉幕しましたが。体操の内村航平選手がオリンピックの鉄棒競技を終 えた1か月後のインタービューで、難易度の高い業を見事に成功した後、これまで競技でほぼクリアーしていたところで落下し、予選落ちとなったことを振り返り、「何が起きたのかわからなかった。気付いたらバーが手になくて、落ちたんだと気付いた」「ここまでものすごい練習を積んできたので、あとはやるだけ、と過信しすぎていたところはあったのかもしれない。柔道の大野将平選手が“自分を最後まで疑いたい”と言っていたが、僕にはその気持ちが足りなかったのかもしれない」と言葉を残されていました。アスリートに限らず、私自身本当の意味でキリスト者としてどう生きているのか。如何に神のみ前に立っているのか問われる思いがしました。

 

本日の宣教に際してエゼキエル書36章が読まれました。かつてイスラエルの人たちは、神の民とされ約束の土地に導き入れられて、その土地を託されるのですが。しかしそこで無益な争いによって「血を流し、神でない偶像を拝み、より頼むこと によって、その土地を汚し」たのです(18節)。「わたしに立ち返って生きよ」とのみ声に背を向け続け、遂に「神は彼らをその土 地から散らし、諸国に追いやり」(20節)、捕囚とされます。それはまさに彼らイスラエルの人たちのおごりに対する神の裁きでありました。

失望し、神に見捨てられたと嘆く彼らに、主なる神は22-33節「イスラエルの家よ、お前たちのため」でなく、お前たちが汚した「わが大いなる名を聖なるものとする」と宣言なさいます。

イスラエルの人々は神の民にふさわしくない行いをなし、そのあげくの果てに追い散らされた先々の国で「これは神の民ではなかったのか」と、神ご自身のみ名が傷つけられた。汚されてしまうのです。「聖なる神」の「聖なるみ名」は回復されねばなりません。それは神の裁きによって、散らされたイスラエルの人々が、28節「再び神の嗣業の土地に呼び集められ、その地に住むようにさせ」、かつてのように神の民とされることによって実現されるのです。

ところで、22節で主なる神が「わたしはお前たちのためでなく、わが聖なる名のた めにその業を行う」とおっしゃっていますが。新約聖書に馴染んだ者がここを読みますと、「神さまは、愛する私たちのために救の業をなしてくださるのでは」と思うかも知れません。確かに神は愛なるお方であります。けれども全き聖なるお方であられるのです。だからこそキリストは十字架で私たちの裁きをその身に負われたのです。それは神が聖なるお方であることが示されるためです。神の厳粛な裁きを知り、もう滅びるばかり、神に愛される資格などもうないと、救いの望みを見出すことができない者にとっては、まさに神ご自身が唯一方的にわが聖なるみ名のためにと、救いの出来事を起こしてくださることが、救いの確かさとなるのです。

25節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちをすべての汚れとすべての偶像から清める。」それは人の力や業による清めではありません。主なる神御自身による清めであります。

26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

ここには、主なる神の一方的な清めについて書かれていますけれども、それは神が「新しい心、新しい霊を与えて、石の心を肉の心」にされることによってです。

主イエスもおっしゃいました。「人は水と霊によって新しく生まれなければ、決して神の国に入ることができない」と。

神の語りかけを謙虚に聞くことを拒むかたくなな石の心は、唯神の一方的な愛と憐みによってのみ打ち砕かれます。私の内にこうした神の語りかけを謙虚に聞くことのできない「石の心」がゴロゴロと転がっていないだろうか。「どうか取り除いてください」と願うばかりの者ですが。

 

先日、クリスチャン精神科医の工藤信夫先生がご著書の中から藤木正三牧師の「礼拝」について触れられた断想の言葉を私にファックスで送ってくださったのですが。その一部にこのように記されていました。「礼拝は神の前でおののく、つまり、自分の悲惨を認めしめられることを抜きにしては、ゆるされないことなのです。悲惨を内に見出すことなしに礼拝するなど、あり得ないとなのです。礼拝とは、上を仰いで神を拝むというよりは、内を見つめて 自分の悲惨から目をそらさないことなのです。」藤木牧師は「内を見つめて自分の悲惨から目をそらさない」と、研ぎ澄まされた感性で言葉になさっておられますが。それは言葉を換えれば、神の前に到底立つに値しないという自覚ともいえるでしょう。

31節、「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と 忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。」

これは実に、神の内側からの清めによって、石の心が取り除かれ、肉の心が与えられ、自分の罪の悲惨に気づいた人のあり様を語っているのです。私たちが、イエス・キリストの十字架の苦難と死によって救いの道が与えられましたのも、私たち自身に何か救われるようなもの、資格があったからでしょうか。決してそうではありません。それとは逆に、神の前に自分は如何に救いようのない者、自分の悲惨さに滅ぶほかない者であるかを知らされたからこそ今日こうしてみ前にひれ伏し礼拝するのであります。

その救いを得させ給う代償の大きさは、イエス・キリストが十字架で流された血と割かれた体を覚えるこの礼拝で、自分の罪の深さに今日も気づかされるものであります。

私たちの救いの確かさは、まさに主イエスの十字架を前に自分の悲惨さ、自我の罪深さに気づかされることから生じるのであります。救われるに価しない者、救われる資格のない者が唯神の大いなる愛と憐みによって救われ、生かされている。それがキリスト者であります。

肝心なのは、この救いと清めを日毎、又礼拝の度毎に確認していくことです。その確認を怠ると、人はまた高慢になってしまうからです。

ルカ福音書5章で、ファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とつぶやいた時、主イエスはその彼らに対して「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔 い改めさせるためである」とお答えになったとあります。 しかし、この正しいとは神の前に自分は正しいといえる人のことですから、そんな人は一人もいないわけです。それを律法学者やファリサイ派の宗教家たちは、自分たちこそ正しい者、神に選ばれた資格ある者だと自負し、人々を見下していたのです。徴税人や罪人と言われていた人たちには、その己を正しいとして人たちとは異なり、自分の心のうちに、神の前に立ち得ない負い目、藤木牧師の言葉でいえば「悲惨」を抱えていました。主イエスはそれをよくご存じでした。

その彼らのもとに来られ「新しい心」を与え、「新しい霊」を置かれたのです。そうして彼らは主イエスを迎え入れ、やわらかな肉の心が与えられるという福音の出来事がそこに起こされていくことが物語られているのです。律法学者や宗教家は、自分は正しいと石のようにかたくなな心であったために、主イエスを受け入れることもできず、罪の解放と救いの福音が届くことはなかったのです。信仰告白しバプテスマ(洗礼)を受けたのだからもう救いは保証されているのだからと、あたかも救いの恵みを当然のように思い、自分の罪に鈍感になっていくとしたならば、救い主との関係性は薄らいでいき、再び罪にさまよう世界に身をさらすことになりかねません。

冒頭、偉大なアスリート内村選手の「過信し過ぎていたところがあった かも知れない」「自分を最後まで疑いたいという気持ちが足りなかったかも知れない」という言葉に触れましたが。その内村選手の自分を見つめる謙虚さ、自分を疑い、問い続けようとするその態度について、これは何もアスリートに限ったことではなく、人が人として生きていくための大切な姿勢と相通じるように思えます。神に愛され、生かされていることを喜びと知る私どもにとりましても、神の前、十字架のキリストの前で、どのような時も謙虚に自分を見つめ直し、主につながり続けて生きる者とされてまいりましょう。

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