2007年5月6日 主日礼拝 「あかし」 Y姉
水曜日の祈祷会は礼拝と共に私にとって大切な命のオアシスです。聖書の学びのときに交わされる率直な意見の交換とそのあとの牧師によるポイントをおさえた解説、これが主日礼拝のメッセージの前哨線です。 グループに分かれての祈りのとき、今週の教会の祈りと各自の祈りの課題について祈ります。再び全員が集って新生讃美歌623番「時は満ちて」をうたって祈祷会は終わります。その後の昼食はまさに愛餐会です。夫々が持ち寄った料理やお菓子をいただきます。たべる物が溢れているときも、すこし少な目のときも、みんなで分け合って楽しい会話がはずみます。何の遠慮もなく言いたいことが言えるというのは、いのちの洗たくになります。
つくづく神さまは人間を人と共に生きるように創って下さったのだなと感じます。一人一人ちがった賜物、ちがった欠点、ちがった生い立ちをもった兄弟姉妹がお互いに補い合いながら支えあって何十年も繰り返してきた営みです。にもかかわらず、この頃、歳のせいか、妙に人恋しく、何かにつけて心細さを感じるようになりました。私はこのことをマイナスに受け取って情けないなあと思っていましたが、最近、通いはじめたある授業の中でそれは正常なごくあたり前のことと、教えられホッと胸をなでおろしました。人はいくつになっても誰かに甘えたい、愛されたいと思うものなのだ、そうです。色々な体験や学習によって、たしかに表面は大人になっていくのですが心の奥底は幼児のときと、すこしも変わっていないのだそうです。体力が衰え、記憶力が衰えてきて、心細くなることでかえって、本来のありのままの自分に気づかされるチャンスが与えられているのかも知れません。自分の弱点を人に知られたくないと肩肘はって生きるのは息苦しいものです。なぜなら誰よりも自分の目からその弱点を隠そうとしているからです。しかし神さまはそのままでわたしの前に立ちなさい、と言われます。ことばで言うのは簡単ですが、なかなかそれができないのです。にもかかわらず最近つくづく感じることですが、教会の兄弟姉妹に自分が受け容れられているという安心感です。私たちの交わりをとりなして下さるイエス様の存在を感じます。娘がバプテスマの決心をしたと知ると沢山の方が涙をながしてよろこび、祝福して下さいました。その涙は、長い年月にわたって、祈って、待っていて下さった結果なのだと気づき感謝で一杯になりました。ピンチのとき、あつい祈りと優しいことばをかけてくださいました。そういう支えの積み重ねの中で、少しずつ聖書のことばの意味が解き明かされてきます。人に受け入れられると気持ちが素直になって、私も人を受け入れていこうと思えるのです。主の日の礼拝を共にまもり、みことばのとき明かしをうけ、共に祈り、共に賛美し、共に新しいいのちをいただいて、一週間のあゆみをスタートする。それがどんなにかけがえのない祝福にみちたことなのかということにあらためて気づかされています。欠点だらけの私ですが、神さまと人とに受け容れられた自分をもう一度うけとりなおして、すこしでも誰かの支えやなぐさめに役立てていただけるように、さし出していく、これが今のわたしの課題です。
フィリピの信徒への手紙4章4~7節 「主において常によろこびなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
マルコによる福音書12章29節「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
水曜日の祈祷会は礼拝と共に私にとって大切な命のオアシスです。聖書の学びのときに交わされる率直な意見の交換とそのあとの牧師によるポイントをおさえた解説、これが主日礼拝のメッセージの前哨線です。 グループに分かれての祈りのとき、今週の教会の祈りと各自の祈りの課題について祈ります。再び全員が集って新生讃美歌623番「時は満ちて」をうたって祈祷会は終わります。その後の昼食はまさに愛餐会です。夫々が持ち寄った料理やお菓子をいただきます。たべる物が溢れているときも、すこし少な目のときも、みんなで分け合って楽しい会話がはずみます。何の遠慮もなく言いたいことが言えるというのは、いのちの洗たくになります。
つくづく神さまは人間を人と共に生きるように創って下さったのだなと感じます。一人一人ちがった賜物、ちがった欠点、ちがった生い立ちをもった兄弟姉妹がお互いに補い合いながら支えあって何十年も繰り返してきた営みです。にもかかわらず、この頃、歳のせいか、妙に人恋しく、何かにつけて心細さを感じるようになりました。私はこのことをマイナスに受け取って情けないなあと思っていましたが、最近、通いはじめたある授業の中でそれは正常なごくあたり前のことと、教えられホッと胸をなでおろしました。人はいくつになっても誰かに甘えたい、愛されたいと思うものなのだ、そうです。色々な体験や学習によって、たしかに表面は大人になっていくのですが心の奥底は幼児のときと、すこしも変わっていないのだそうです。体力が衰え、記憶力が衰えてきて、心細くなることでかえって、本来のありのままの自分に気づかされるチャンスが与えられているのかも知れません。自分の弱点を人に知られたくないと肩肘はって生きるのは息苦しいものです。なぜなら誰よりも自分の目からその弱点を隠そうとしているからです。しかし神さまはそのままでわたしの前に立ちなさい、と言われます。ことばで言うのは簡単ですが、なかなかそれができないのです。にもかかわらず最近つくづく感じることですが、教会の兄弟姉妹に自分が受け容れられているという安心感です。私たちの交わりをとりなして下さるイエス様の存在を感じます。娘がバプテスマの決心をしたと知ると沢山の方が涙をながしてよろこび、祝福して下さいました。その涙は、長い年月にわたって、祈って、待っていて下さった結果なのだと気づき感謝で一杯になりました。ピンチのとき、あつい祈りと優しいことばをかけてくださいました。そういう支えの積み重ねの中で、少しずつ聖書のことばの意味が解き明かされてきます。人に受け入れられると気持ちが素直になって、私も人を受け入れていこうと思えるのです。主の日の礼拝を共にまもり、みことばのとき明かしをうけ、共に祈り、共に賛美し、共に新しいいのちをいただいて、一週間のあゆみをスタートする。それがどんなにかけがえのない祝福にみちたことなのかということにあらためて気づかされています。欠点だらけの私ですが、神さまと人とに受け容れられた自分をもう一度うけとりなおして、すこしでも誰かの支えやなぐさめに役立てていただけるように、さし出していく、これが今のわたしの課題です。
フィリピの信徒への手紙4章4~7節 「主において常によろこびなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
マルコによる福音書12章29節「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
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