日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ダニエルの選び取りと、神の御計らい

2022-08-21 13:46:09 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル書1章1-21節 

今月は平和月間として「平和」「いのち」の尊さを覚え祈りつつ過ごしていますが。                                先日は関西地方教会連合の8・15平和祈祷集会が行われました。講師のM牧師より軍事クーデターから1年半が経つミャンマーの報告をお聞きしました。ミャンマーの人口は5200万人、135の民族からなるそうです(2014年データ)。そのうちキリスト教徒は9%と日本よりはるかに多く、仏教徒は80%だそうです。ミャンマーにキリスト教が布教されから今年で200年となるそうですが。その始めに聖書の飜訳がされていく過程で何とお坊さんたちの多大な協力があったというお話を聞いて驚きました。現在国軍のクーデター以来、一般市民が拘束されたり、不当な暴力を受けて命が軽んじられる状況がずっと続いているとのことでした。そうした中、ミャンマーのキリスト教会はこの人の命が蔑ろにされている状況に対して「声明文」を出し、逃れてきた人たちを聖なる教会で保護しているそうですが。国軍による教会への武力的な攻撃はじめ、中には殺害された神父、司祭や牧師、信徒の方がたもおられるとの事です。仏教寺院や仏教徒の人たちも同様の迫害を受けているとのことでした。又、多くの市民が犠牲となってていく中で、親、養育者を亡くした子どもたちが増え、廃墟と化した路上で傷つき、血を流して泣いている子どもたちの写真が送られてきていましたが。もはや誰も助けることができず、治療も受けられず、路頭に迷うしかないのかというような様子がいたたまれません。M牧師は日本で牧会されている教会学校の子どもたちに向けて、「今みなさんは家があり、家族がおり、食べることができ、生活することができているけれども、今このような子どもたちがいるよ」とまっすぐに伝えると、教会の子どもたちは真剣な眼差しで話を聞いているとおっしゃっていました。M牧師は「武器を持って国民を守るべき者が、なぜ武器で国民を殺し続けているのだろうか?権力をもって国民への弾圧を続けているのだろうか?私たちには理解できません」と話されました。政治犯支援協会の調査によると8月12日現在、軍事クーデター以降、死者は2185人、連行された人は15091人、拘束中の人は11994人、国際連合難民高等弁館事務所の調査によると7月末現在、国内外には人口の約2割の120万人以上が難民として国軍の弾圧から逃れて避難生活を余儀なくされているとのことです。
ご講演の終りに詩編85編9-10節の「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように、主を畏れる人に救いは近く栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」との御言葉を読まれて、私たちに以下の3つ祈りの課題を提示されました。
  1. 苦しみと恐れの中にいる人々の日常に平和と自由が再び早期に訪れるように。
  2. 痛みと悲しみに覆われている人々の家庭に平安と慰めが与えられますように。
  3. 不当に拘束されている人々の叫びを心に受け留めて、希望と勇気が注がれますように。
に。どうか皆さまのお祈りに加えてください。

今日から6週に亘りダニエル書から御言葉を聞いていきます。本日は1章から「ダニエルの選び取りと、神の御計らい」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。
ダニエル書は、神の選びの民とされたユダヤの民が、背信から生じる罪のためにバビロンによって滅ぼされ、バビロンで捕囚とされた時代のことをあつかっていますが。実際にこの書が編纂されたのは、それから約400年後のシリアがイスラエルを支配し、激しい迫害を加え、ユダヤ人とその文化や宗教をギリシャに同化させていった時でした。その時代のユダヤ人はバビロン捕囚とされた時と同様、その尊厳とアイデンティティーが損なわれるほどの厳しい迫害にさらされてったのです。ダニエル書はそのような主の民、ユダヤの人々に神への信仰と励まし、希望を与えた書物なのです。それは又、この書物が今を生きる私たちにとりましても決して単なる遠い過去のものがたりではないということです。先ほどのマウマウタン牧師からのミャンマーの現状についての報告を紹介させて頂きました。それはミャンマーばかりでなく、先には香港、次いでウクライナ、また少数民族の人たち、まだ私たちの知らない地においても、神さまがお造りになられた人の尊厳が踏みにじられている現状であります。

今日はダニエル書1章より、ダニエルを含めた4人の主の勇者たちの生き方から、私たちも又、今の世界にあって如何に生きていくかという聖書のメッセージを聴いていきたいと思います。
彼らは王ネブカデネザルが捕囚として連行してきたイスラエルの王族と貴族の中から選ばれた、秀でた少年たちでありました。王は優れた少年を選び、3年間バビロンの言語を教えこませ、王が食べる宮廷料理を食べさせて宮廷教育を施し養成させました。これは彼らを高い地位につかせるためでしたが、それは又バビロンの国仕える者として教育された彼らが捕囚であるイスラエルの民をよりよくコントロールできるようにという政策的意図があったようです。彼ら4人はそれぞれバビロン名に改名されますが。改名はその民にイスラエルの民であることをやめさせ、バビロンに同化することを強要するものでした。同化は権力をもつ側によってなされるのであります。日本でもかつて大東和共栄圏を名目に侵略戦争をしました。そこで近隣アジア諸国の人たちを強制連行、強制労働、皇国史観の強要、日本語の強要、神社参拝の強要、さらに、氏名を日本名に改名させるといった、まさにその民族と個人の尊厳とアイデンティティーを奪う同化政策がとられました。同化政策はその人がその人であること、その人らしく生きる権利を奪い踏みにじるものです。それが戦争であり、侵略であります。2度とこのような神の御前に恥ずべき悪行が繰り返されることがないように願い祈ります。

さて、ダニエルら4人の少年たちに王から贅沢な宮廷料理とぶどう酒が出された時のことです。ダニエルは「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」(8節)、王の侍従長に「自分を汚すようなことはさせないでほしい」(8節)と願いでます。
最高権力者の王さまが出されたものを断るのですから、無礼な事とお咎めを受けるかも知れません。ダニエルらは相当な勇気がいったではないでしょうか。しかし彼らは人を、ではなく神を畏れ敬うのです。それにしても、何で食べ物ぐらいのことで、と思われる方もおられるでしょう。けれどもそれは、神から受けた律法に定められた神の祝福に与るためのものであり、イスラエル・ユダヤ民族である彼らにとって「神の民として生きる」ために守るべき重要な事柄であったのです。
今でもユダヤ人(教徒)は血を含んだレアステーキやぶた肉はその規定に従い口にしません。かつてバビロンでは肉を食べる前に偶像にそれを捧げ、その後にそのところからとって食べていましたから、ダニエルらにとってはなおさらのことでした。それは彼らが彼らであるための大事な要素の1つなのです。出された料理をいただくことは礼儀だという考えもあるでしょう。しかしダニエルらは力をもつ者のいいなりになって身を汚して、自分の出世や栄誉を得ることよりも、神の民としての自らの尊厳や存在意義を失うわけにはいかないと踏みとどまることを選ぶのです。目の前のおいしそうな食事を前に食欲にかまけて神の法に反するなら、バビロンのもつ異教的な価値観や習俗慣習に呑みこまれてしまうことになると察知し、それを拒否したのです。そのよう彼らは神の御前で誠実に生きる道を選び取ります。

一方、慌てたのは王の侍従長です。ダニエルの言葉に大変困惑し、「同じ年頃の少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、まあ当然ともいえる言葉が返ってきます。
ダニエルらも侍従長の立場をわかっていたでしょうが、この事に関してはゆずることはできません。
では、どうしたか。そこが今日の聖書の大きな一つのポイントです。ダニエルはここで、侍従長が自分たち4人のために定めたに世話係にある提案をします。
それは「10日の間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせて試してください」「その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考え通りにしてください」というものでした。
ダニエルがこの窮地においても冷静な判断をすることができたのは、彼が「神の御計らい」によって「神からの知識と才能の恵み」を賜っていたからです。それは、人にはできないが、すべての主である神にはおできにはなるという信仰です。

そうして10日間試した結果、「彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった」というのです。この「どの少年よりも」というのは、ただ自分のために飲み食いしていた人たちとも言えます。それは単に肉体的にがっちりとなったというのでなく、魂の健やかさがあった。霊性がゆたかで生気が満ちあふれていた。そのような姿であったように想像します。

17節「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」とございます。
又、20節「王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていたと」とございます。
まあ古今東西。権力者もその地位にのぼりつめますと、自己保身のためにあの手この手とあやしげな口寄せや占師に求めるということがあるようで、最近の日本でも似たようなことがあるようですが。かの大バビロニア帝国のネブカドネツアル王にも、おかかえの祈祷師や占師がいて、それが国策に大きな影響を及ぼしていたということですね。
箴言には「主(神)を畏れることは知恵の初め」(1章7節)とございますように、心から神を畏れ敬うダニエルたちを神はこのような形でお用いなさるのです。神に信頼して生きる者に世の知恵でなく、神の知恵が備えられるのです。それはあらゆる危機や誘惑から救い出してくださる神さま恵みの賜物であります。

最後に1つ日本の歴史を教訓として学びたいエピソードをご紹介して本日の宣教を閉じます。
かつて沖縄は琉球王国という独立した国でありましたが。日本の支配下となり同化を強いられる中で、かの戦争に至ります。その時代アメリカ軍は鬼畜であり、その捕虜になるぐらいならいさぎよく日本人として死を選ぶべし、とまで軍国教育がなされたのでした。これはあの沖縄戦の時に二つのガマ(洞窟)で起こった対照的な出来事についてでありますが。
読谷村にある一つはチビチリガマとよばれる洞窟。ここはいわゆる「集団自決」が行なわれたガマです。この洞窟には住民約140人が避難していましたが。米軍が上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし、民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、住民たちの指導者の「自決せよ」との言葉に、鎌や包丁、看護師が持っていた劇薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられ、暗闇の洞窟の中で83人が死亡、その6割が18歳以下の子供で、中には乳幼児もいたということです。
もう一つも読谷村のシムクガマとよばれる洞窟です。ここには約1000人が避難していました。米軍が投降を呼びかけたところ、洞窟内は一時パニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの2人の老人が、「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができたのです。その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されたということです。この対照的な二つのガマは1キロも離れていなかったのです。避難住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
この2つの大きな異なる結果は、日本軍による教宣活動によるものです。琉球のことばを許すなと命じ、日本人(ヤマト)として働くこと戦うことを強い、神ならざるものを崇拝させてお国(ヤマト)への同化政策が巧妙になされていきました。そして鬼畜米軍の捕虜になるくらいならお国のために死ぬことが美徳として洗脳されていった時、沖縄の人が沖縄の人として生きることを否定され、その島の宝である多くの命が失われていったのです。チビチリガマの出来事然りです。片やシムクガマの出来事は、出会いと経験から間違ったデマや教宣に惑わされなかった2人の人、いうならば日本軍の同化政策に流されなかった人たちの真実と信念の言葉と行動によって、ガマの人たちは一命を取り止めました。何か今日のダニエルたち4人の少年たちの姿がそこに重なってくる思いですが。
私が私であることの存在意義を大事に守っていく。それと同時に、誰もがその人らしく生きていける命の尊厳を大切にする社会の実現をキリストの平和のうちに祈り、執り成してまいりましょう。
ダニエル書10書19節の御言葉を読んで本日のメッセージを閉じます。
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする