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落ち穂拾い

2019-09-15 14:58:54 | メッセージ

礼拝宣教 ルツ記1章22節-2章23節 敬老感謝

 

本日は敬老感謝として主に礼拝を捧げております。

人生の先輩、信仰の先輩方、中には今日集うことができない方々もおられますが。共々にその敬愛の思いを表わし、祈りにおぼえていきたいと思います。

「残された人」

さて、今日からルツ記より御言葉を聞いていきます。

まず1章1節に「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ」とあります。

ユダのベツレヘムと聞くと、そこがダビデ王の出身地であり、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストが誕生した町でもあることを思い起こしますが。
モアブの野に移り住んだ人の名前はエリメレク、その妻はナオミ、2人の息子はマフロンとキルヨン。その4人の家族が、飢饉によって故郷での生活が困難になり、外国であるモアブの地へと移住せざるを得なくなったのです。この中には戦時中の疎開、又満州・朝鮮からの帰国などの厳しい体験をなさった方もおられますが。大変なご苦労があったことでしょう。

エリメレクら家族も、何か希望的な計画をもって故郷を離れたのではありません。生活していけなくなってやむを得ず、見知らぬ地に移住したのです。そして移住した異国における苦しい生活の中で、エリメレクは妻と2人の息子を残して亡くなりました。

昨今の相次ぐ災害により避難生活や移住せざるを得ない方々が日毎に増加している今の日本、いや世界の現状ですが。その過酷さというものは如何ばかりであろうかと、このところが重なり、考えさせられます。

残されたナオミは女手一つで息子たちを育て、その息子たちもやがて成長し、それぞれモアブの女性オルパとルツと結婚するのです。過酷な生活の中にあってそれは彼らにとって平穏な日々を与えたことでしょう。

しかしそれは間もなく失われました。2人の息子が相次いで亡くなったのです。

こうしてナオミは故郷を出た時家族4人だったのですが、ひとり残されてしまったのです。ナオミの喪失感、その悲しみはどれほどだったでしょうか。2人の息子の家庭にはどちらにも子どもが与えられませんでした。孫が生まれていたら、その孫のために生きる力も湧いたことでしょう。しかしそれもない。周囲には頼れる親族もおりません。

この家はもうおしまい、将来に何の希望もない悲しみのどん底にナオミはあったのです。

「その人の傍らに」
その悲しみの中でナオミは故郷に帰る決心をします。イスラエルの地の飢饉は去り、再び食物がとれるようになっていたのです。もはやモアブの地に留まっている理由はない、悲しい思い出ばかりのこの地を去って故郷に帰ろう。そう考えたのではないでしょうか。そうしてナオミは嫁たちに「それぞれ実家に帰って新しい嫁ぎ先を見つけて幸せになりなさい」と言ったのです。彼女は嫁たちがこれまで息子たちと自分によく尽くしてくれたことを感謝し、主なる神さまに彼女らの祝福を祈ります。

ナオミのこの言葉によって、オルパは、別れを惜しみつつ実家に帰って行きました。 

しかしもう一人の嫁ルツは、ナオミのもとを離れようとせず、こうナオミに言います。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

こうして、夫と2人の息子を失ったナオミと、やもめとなった嫁のルツは、共にベツレヘムへと向います。
彼女らがベツレヘムに着くや、「町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけ」、故郷の人々からは歓迎されます。

しかしナオミは、故郷の人々と再会を喜び合うような心境ではありません。全てを失った絶望の中、何の希望もなく、ただ帰って来たからです。

彼女は「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と訴えるのです。

ナオミという名は「快い」(口語訳聖書では「楽しみ」)という意味でした。

ベツレヘムを出た時は、飢饉で食い詰めてはいましたが、それでも夫があり、2人の息子がいて自分はそれなりに満たされていた。この家族のために苦しみを乗り越えようという希望があった。しかし今やそれら全てが失われ、私はただひとり残された

自分はうつろだ、虚しい、希望などない、こんな自分がどうしてナオミだろうか、むしろ私の名はマラ、「苦い」(口語訳では「苦しみ」)であるべきだ。彼女の口からはこういう苦しみの言葉しか出て来てきませんでした。

自分がなぜこのような苦しみ、絶望、虚しさを味わわなければならないのか?ナオミの心には、主なる神に対するこのような不満、抗議の思いが渦巻いていたのです。

けれども、ナオミはこの絶望と喪失感の中で忘れていることが一つありました。

ナオミは「うつろ」な者、「虚しい」者、「失われた」者と言っていますが、彼女がそうであるように若くして夫を亡くし子もおらず故郷を離れ、見知らぬ地へとやって来たルツがこのナオミの傍らにいるのです。

ルツは、「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです」と言っています。

彼女はナオミについて来いと言われたのではありません。嫁としての義務感で仕方なく共にいるのでもありません。ルツは心から、ナオミと共にいたいと、そう願っているのです。

ルツがこのような思いで今ここにいることそれ自体が、主なる神さまのみ業なのです。あらゆるものを失い絶望の底におかれたナオミ。残されたナオミの傍らに、主なる神さまが助け手としてルツを共にいる者として備えて下さったのです。

私たちも自分の苦しさや悲しみに打ちひしがれている時というのは気づくことができないかも知れませんが、その私に寄り添うように心を向け、背後で祈ってくださっている人がきっといます。後で振り返ってみれば、神さまが私のそばにそのような人たちをおいてくださったのだなあと知らされる、そのような経験をお持ちの方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。そこに主の教会、又主にある兄弟姉妹としてのつながりの大きな恵みがあります。

「落ち穂拾い」

さて、ここまでが1章からの大まかな流れですが。ここからが本日の箇所となります。

「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころ」でした。

しかし彼女たちには収穫するものが何もないのです。
ルツはナオミに言います。「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」

落ち穂拾いとは、どうにも食べるものがなく追い詰められた者がその日の食物を得るために残されていた、最後の手段でした。

律法の書であるレビ記19章9-10節には「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と明記されています。

収穫後の落ち穂は貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。これが律法の戒めです。この相互扶助の精神の土台には、天地万物の創造主である神さまへの信仰があります。

収穫はその神さまが与えて下さった恵みであるから、自分だけで独占するものではなく、貧しい人、今困っている人、それも寄留者、外国人に対しても分かち合わなければならない。主なる神さまが収穫を与えて下さったのは、そのように貧しい人、今困っている人を助けるためでもあるということが、神を畏れ敬う者にふさわしい態度であることが教えられているのですね。ここには神さまの慈しみと愛とが表わされています。まあ食料品にまで10%税を課そうとしているこの国の現況がうら寂しく思える3000年以上も前からの教えでありますが。

さておき、外国人であったルツはおそらくモアブにいた頃、ナオミからこの神の慈しみと信仰に基づく律法、どんな人であれ弱い立場に立たされた者を保護する掟についての話。いわばその信仰の精神を日々聞かされていたんでしょう。ルツはそれをしっかりと心に留めていたのであります。

ルツはこの掟を頼りに、誰かの畑で落ち穂を拾わせてもらおうと出かけたのです。毎日いろいろな人の畑に行っては、所有者にお願いして落ち穂を拾わせてもらいます。

それは大変つらい日々だったでしょう。あのような掟があるからといって、誰もが快く迎えてくれるわけではないでしょう。ルツは外国人でありましたから、さげすまされたり、邪魔や暴力を振るわれるようなこともきっとあったと思います。そういった不安や恐れの中、彼女は自分と高齢になったしゅうとめが生きるために、その日、その日を祈りながら忍耐強く労働を続けたのです。
「ボアズとの出会い」

そんなある日、ルツは思いもよらずエレメレクの一族、親戚筋に当たるボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。

ボアズは、自分の畑で働く農夫たちひとり一人に「主が共におられますように」「主が祝福してくださいますように」と日毎声をかけ、覚えていた、そういう信仰の厚い人でした。

ある日彼は、見知らぬ若い女性が落ち穂を拾っているのに気づき、農夫の監督に「そこの若い女は誰の娘か」と聞きます。それは彼女がまだ若いのに、朝から今までずっと立ち通しで落ち穂拾いをして労していたからです。

そして、彼女が先頃モアブの地から戻って来た親戚筋にあたるエリメレクの妻ナオミの息子嫁であったことを知るのです。

ボアズは、ルツに声をかけます。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」

これは並々ならぬ親切です。

ルツはボアズのこの思いがけない厚意に驚き、感謝しながら尋ねます。

「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは、厚意を示してくださるのは、なぜですか。」

ボアズは答えます。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

これが、ボアズの厚意の理由です。

このルツに対して示したボアズの厚意は、主なる神さまがルツにお示しになった御慈しみに他ならないということです。

ルツは、モアブという外国の出身でありながら、イスラエルの神である主の御翼のもとに逃れて来たそのルツを、主なる神が温かく迎え入れ、育み養って下さる、そういう主なる神の恵みのみ心を、ボアズは自分の厚意によって示そうとしているのですね。
ルツはこのボアズの言葉にこう答えます。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

ルツはどんなに心いやされたでしょう。

おそらくルツはイスラエルの地に来て、自分がよそ者であること、外国人であることによる疎外感を感じていたのではないでしょうか。夫が死んでもしゅうとめに従ってきた立派な嫁だと褒める人々もいたでしょうが。中には「あの人はモアブ人だから、私たちとは違う、よそ者だ」と言う人もいたのではないでしょうか。ルツもそれをひしひしと感じていたと思うのです。

イスラエルの中に、自分たちは神に選ばれた民だという選民意識、同族意識を強く抱き、外国人を異邦人と呼んでさげすんでいた人々がいました。

そういう中で、モアブ出身のルツが落ち穂を拾い生きていくのは大変なことだったはずです。疎外感、孤独の中で彼女の心は折れそうになり、疲れていったことでしょう。そんな彼女にボアズの信仰から溢れた言葉がどんなにか染み入ったと思うのですね。このボアズのように神への愛と隣人愛という信仰の塩に味付けされた言葉を、いつも口にしたいものだとつくづく思うものでありますが。
「主の厚意」

この2章には「厚意を示してくださる」という言葉が3度も繰り返されています。

ルツは、自分とナオミに「厚意を示してくださる方」を求めて落ち穂拾いに出ます。  そして「厚意を示してくださる」ボアズと出会い、慰めを得ます。

ボアズは、けれどもこれは自分の厚意というより、主なる神さまの厚意だ、主なる神さまが、その御翼のもとに逃れて来たあなたに豊かな厚意を示し、迎え入れて下さっているのだ、といっているのですね。

このようにルツはボアズを通して厚意を示してくださる主なる神さまと出会い、救いを見出し、慰められたのです。

「御翼のもとで」

主なる神さまが、その御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを迎え入れ、厚意を示して下さった、それこそが本日のメッセージの中心であります。

主なる神さまの厚意、慈しみは、イスラエルの民だけに向けられているのではありません。主はみもとに身を寄せて来る全ての者に厚意を示し、温かく養って下さるのです。
苦しみの中で御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを、主なる神さまがボアズを通して、その厚意をもって迎え入れ、養って下さるのです。

23節に「ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終るまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った」とあります。

私たちはここから、主なる神の恵みの豊かさ、深さを知らされます。

主はこのような慈しみによって、私たちをも御翼のもとに迎え入れて下さり、神の民として育み、養って下さるお方なのです。ルツは、主なる神さまの御翼のもとに逃れて来ましたが。それを本当に実感できたのは「神の厚意を知る人」ボアズの言葉と態度に触れた時でした。

今も主なる神さまは、救いを求める人、主の教会に身を寄せて来られるすべての人に深い慈しみをもって厚意を示され、その主の厚意が、信仰者を通して表わされることを期待しておられます。

大事なことは、主なる神さまの御翼のもとにだれもが例外なく迎え入れられ、その厚意をお互いがおぼえ合い、主の慈しみによって養われていることです。

主なる神さまは、ご自分の御翼のもとに新たに逃れて来た人たちをも、恵みをもって迎え入れ、厚意を示し、守り養おうとしておられるのです。

その主の慈しみのもとにある福音のゆたかな拡がりを喜び合いつつ、恵みに行かされていることに感謝して、この礼拝から今週もそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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