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主イエス・キリストの福音

2019-04-28 14:39:03 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ1章1-10節 

本日の礼拝から6月上旬まで、ガラテヤの信徒へ使徒パウロが書き送った手紙をご一緒に読んで、ここから主の御心を受け取ってまいりたいと願っております。

ガラテヤは大きく小アジア地方、今のトルコ中央部の地域を指しています。

当時そこには一つの教会でなく、「諸教会」とあるように複数の地域教会が存在していました。

使徒パウロは第一回目の伝道旅行でガラテヤ地方の周辺を訪れ、さらに二回目の伝道旅行ではガラテヤ地方を本格的に訪ね、福音を宣べ伝えました。

そこにはすでにクリスチャンとなった人たちがいたわけですが、パウロはそこで「十字架につけられたキリスト」、その人間の罪と贖いによるゆるしと救いを徹底して宣教し、諸教会の成立に大きな影響を与えたようです。

ガラテヤの諸教会は、当然その地方に住む人たち(いわば異邦人)が多かったのですが、そこに兼ねてより暮らしていたユダヤ人や迫害を逃れてきたユダヤ人もともに信仰の交わりを持って、地域教会(ローカルチャーチ)が構成されていたということです。

 

さて、そのようなガラテヤの諸教会にパウロが手紙を書き送った時期と場所については、使徒言行録19章の第三回目の伝道旅行のエフェソ滞在中の頃、であったとされています。

その執筆の動機については、本日の1章1-10節を読めば大方の察しがつきますが。

まあ、パウロの書いた手紙、書簡は新約聖書の中に多くございますが、ローマの諸教会、コリントの諸教会、フィリピの諸教会等に宛てられたそのほとんどの最初の冒頭のあいさつでは、その諸教会と信徒たちに対する感謝のことばで始まっているのです。

ところが、このガラテヤの信徒への手紙の冒頭のあいさつでは、ガラテヤの信徒たちへの感謝のことばは皆無です。

主の恵みと平和があるように、と祝福の言葉を述べてはいますが、6節以降になると、かなり露骨に、激しい怒りとも言える感情がむき出しになってゆくのがわかります。

そしてそこには、どうしてガラテヤの信徒たち対して、こんな厳しい言葉で手紙を書き送らなければならなかったかが記されているのであります。

 

パウロは6節で「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」といっていますけれど。

これは原文に近い「あきれ果てている」と言う言葉が最初に来ていて、「もう本当にあきれ果てている」とパウロは本気になって怒りを露わにしながら、彼らがキリストの救いの恵みという最も根本的な福音から離れようとしていることを憂いているのですね。

 

パウロはさらに、7節「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしていることにすぎないのです」と述べます。

ガラテヤの信徒たちの福音理解はただされねばなりませんが、しかし彼らも実は誤った教えによる被害者であるのです。

 

問題は、ガラテヤの諸教会の中の「ある人々」が、「イエスさまの十字架の贖いによる救い」という最も大切な教えを軽んじて、あるいは捻じ曲げて、「かくあらねばならない、これを行わねば救いにあずかることは出来ない」、というようなことを説いてガラテヤの信徒たちを惑わしていたことにありました。

さらに、彼らは「パウロは反律法主義者で使徒などではないなど」と、ガラテヤの信徒たちに向けて非難していたのです。

ここに問題の根源があったのですね。

 

もう少し詳しく申しますと、この「ある人々」とは、ユダヤ教徒から改宗したクリスチャンの一部の人たちで、彼らはまだ「主イエス・キリストの救いに対する正しい福音理解」が進んでいないうえに、「律法を守り行うことによって自らの義を立てよう」とすることから、いまだ真の解放を得ていなかったのです。

 

これは何もガラテヤの諸教会と信徒たちに限った問題ではありません。

今日のところはよく理解して心に留めていないと、むしろ真面目で熱心なクリスチャンほど自分を本来の福音から遠ざけ、高慢になって隣人、兄弟姉妹までも裁いてしまうという状況を作り出してしまうんですね。

 

使徒パウロが説く福音とは「キリストの十字架が、罪ある私たちに完全な救いをもたらす贖いと解放の業である」ということです。

神の御心により、主イエスが私たちの罪の身代わりとなってくださった。

そのキリストが十字架で流された血と裂かれた肉とによって私たちの罪はゆるされている。

そしてこの「神の恵みを信じる者はだれであろうと救われる」。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと分け隔てなく万民がこの神の救いに招かれているのです。

さらには先週ありましたように、主イエスが復活されたことによって私たちは罪の滅びから救いのご計画、すなわち永遠の命の希望へと移されているということです。

これこそが主イエスにある福音の真理であります。

けれどもユダヤ人のある人たちはこの福音に対して懐疑的で否定的でした。

この人たちはクリスチャンとなっても、なおユダヤ人として律法の厳守、割礼の義務を自他ともに強いたのです。

ガラテヤの異邦人のクリスチャンたちに対しても、そのように行うことこそが救いの条件であるというふうに説いていたのです。

 

ガラテヤの諸教会の信徒の多くは、異邦人でありましたから、彼らにしてみればそういったいわば本家本元のユダヤ人が行ってきたように、律法を細かに守って生きることは、「神の前に正しい生き方なのだろう」と、まあ良いことのように映り、真新しい教えと響いたのかも知れません。

 

又、割礼という目に見える儀式を施すことによって、神の民となる保証に与れるというのも、異邦人にとっては心惹かれる教えとなったのかもしれません。

まあこのようにして、ガラテヤの異邦人クリスチャンたちの多くは、「この別の福音」の教えの影響を受け、それだけでなく、それを支持すべく動きが活発になっていったのであります。

これは、「キリストの福音」、主を信じる者はだれでも救われるという神の福音が骨抜きされる危機的事態に、ガラテヤの教会は直面していたということです。

 

パウロは8節で、「わたしがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と、さらに9節でも「あなたがたたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」と、重ねて記してます。

聖書の学び会の場でも、使徒パウロともあろう人が「呪われよ」などと口にしているが、よほどそう言わざるを得なかったのか。とか、そんな「呪われるがよい」などと言うことがゆるされるんだろうか、どうなんだろうか、と。

その問いに対してはどうにも答えようがありませんけれども。

ただ、少なくともパウロには、そこまで言ってでも何とか間違った教え、主イエスの十字架をないがしろにするような教えを改めてほしいという、切なる願いがあったことには違いなかったのです。

それは又、厳しい言葉には違いありませんが、ガラテヤの兄弟姉妹に対するキリストにある愛と祈りに根差した叱責であったのですね。

 

今日の箇所の先の13節以降のところで、パウロは「キリストの福音」によって救われてクリスチャンとなる以前の自分自身の有様(ありよう)について、次のように記しています。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

そのように熱心に律法を厳守し、ユダヤ教に徹しようとしてキリストの教会と信徒を迫害していたパウロが、シリアのダマスカス途上で復活の主イエス・キリストと出会うのです。

「パウロ、パウロなぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御声を聞いたパウロは、これまで神のためと思って自分の思いで熱心に行ってきたことすべてが、実は神を痛め苦しめ人々を迫害していたのだということ、その罪の大きさに打ちのめされて、しばらく目が見えなくなるのです。

神の憐れみにより、クリスチャンのアナニヤの、とりなしの祈りによって目を開かれたパウロは、「神の御子を十字架に磔にして殺害したのは、自分自身の罪であること」をさとり、自ら主イエス・キリストの福音による救いを信じ受け入れて、新しく生まれ変わり、クリスチャンとなります。

 

「律法を守らなければならない、神の民としてふさわしくあるには義を立てるような働きをするべきだ」。パウロはそういった、かつての考えからこうして解放され、神の愛、イエス・キリストの十字架とその贖いによって、本当の救いと解放、神との和解による平安を得るのであります。

 

このようにして主の恵みによる御救いに与ることを、身をもって経験したパウロでしたから、ガラテヤの諸教会の信徒たちがその素晴らしい「キリストの福音」から離れていくことがとてもじゃないけど耐えられなかったのでしょう。

 

そのようにパウロは人一倍、キリストとその十字架における神の愛と救いを経験し、律法主義や民族主義といったものに囚われることの危うさを知っていたからこそ、愛するガラテヤの信徒たちに対して、手紙の冒頭からあれほどまでに激しい感情を露わにして訴えかけたのですね。

 

今日私共もまた新しい思いで、この使徒パウロのメッセージに聞き、主イエスとその十字架の贖いにおける、神さまの深い愛と憐みこそ本当の福音であることを確認いたしましょう。

律法的信仰観、こうあらねばならないという考えに縛られた裁きの古い生き方から、キリストの愛と救いに生かされる感謝と喜びにあふれる新しい人へと新たにされてまいりましょう。

今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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