礼拝宣教 ルカ22章31~34節 54~62節 受難節・レント5節
この前カレンダーの2月をめくったかと思えば、あっという間に3月も過ぎ、早4月となりました。うちはみ言葉カレンダーですが、4月のところに次のような聖句が掲げられています。
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」使徒言行録17章30節の聖句です。
悔い改め:メタノイアは、神に立ち帰る、神の愛と憐みに立ち戻って生きることです。1月より礼拝でルカ福音書を読んできていますが。その中の一つのキーワード、強調されているのは、「悔い改め」:神に立ち帰って生きる」ということでありますね。
そのことを心に留めながら、今日のルカ22章のみ言葉に聞いていきたいと思います。
この個所は、イエスさまが「ペトロの離反を予告」し、ペトロがイエスさまの予告通り、イエスさまのことを知らないと言って否んだ」、よく知られているところですが。
今日の聖書の箇所を一通り読みまして気づくことは、イエスさまはシモン・ペトロが離反することをすでにご存じのうえで、31節「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願った。(ちなみに「聞き入れられた」という原語はありません)しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、そのようにおっしゃっているのです。
ちなみにこの部分は、他の福音書にはなく、ルカの福音書にのみ記されています。ここには「主イエスのペトロのための祈り」があり、又、ペトロが立ち直る:正確には「主に立ち帰る」ことへの期待が語られているのです。
シモンはそういうことも知らず、イエスさまにこう答えます。
「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」
まあ、自分はイエスさまの一番弟子なんだ、という責任感やプライド、あるいは自負というもがあったのかも知れませんね。
するとイエスさまはペトロに言われます。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
その後、イエスさまは人々から捕らえられ、大祭司の家に連行されます。
ペトロはどうしたかと言いますと、「遠く離れて従った」とここにあります。そして「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて一緒に座っているその中にペトロも混じって腰を下ろした」ともあります。
この時のペトロの心情というものはどうだったのかわかりませんが。大祭司の側にあった人々の中に混じっていたことから、少なくとも、彼はイエスさまとの距離をおいていたことがわかります。
そんな時、ある女中がたき火に照らされて座っているペトロを目にして、しっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言います。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言います。
その後、他の人がペトロを見るや、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言うんですね。
さらに一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と答えるんですね。
ペトロは調子がいいときは強いことを言ったのですが、状況が変わってしまうとその思いも変わってしまうんですね。それは又、私たちもそうではないでしょうか。
さて、ペトロが「あなたの言うことがわからない」と言い終わらないうちに、突然鶏が鳴きます。そうすると61節、「主は振り向いてペトロを見つめられた」というのです。
ここは岩波訳聖書ですと、「主が振り返って(ペトロ)を見つめられた」となっています。振り向くも振り返るも同じように聞こえますが。原語のギリシャ語では、これは「立ち帰る」という言葉に近い意味をもっているのです。
そうしますと、ご自分を三度知らないと否んだペトロに、イエスさま御自身が近づかれ、立ち帰って見つめられたということになります。
これは考えるとおかしなことです。ペトロが立ち帰るということなら分りますが、イエスさまが立ち返るとはどういうことでしょう。
ペトロは結局のところ、イエスさまとのつながりを、関係のないものとして否みましたが、イエスさまはそうではなかったのです。そうしてペトロが3度イエスさまを否んでしまったにも拘わらず、イエスさま御自身はなおもそのペトロに近づき、振り返る、つまりペトロの方に立ち返って愛の眼差しを注がれるのです。ペトロはそのイエスさまの愛の眼差しに打ちのめされたのではないでしょう。
すると、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て、激しく泣くのです。
その涙は単なる後悔の涙ではありません。自分の罪深さをほんとうに知った者の涙です。
私たちの信仰もまた、そのような主イエスの愛の眼差しによって、主に立ち帰ることができるんですね。それを呼び起こしてくださるのは、主の御言葉とご聖霊のお働きです。
いつも絶えることなく主の御言葉とご聖霊のお働きを求めてまいりましょう。
さて、今日は宣教題を「主イエスの祈り」とつけました。
そこには、イエスさまとの関わりを否んだペトロになおも、イエスさまが近づき、振り返って見つめられた。その眼差しの奥には、ペトロへの怒り、断罪、裁きといったものは一切なく、ただ「ゆるし」と「受容」の祈りがあったのです。
今日の箇所のはじめで、イエスさまがすでにペトロのことをご存じの上で、「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」と、おっしゃったということを申しましたが。
このイエスさまの祈りは、その眼差しと同様、ゆるしと受容の祈りです。
同じルカ福音書の「十字架状でのイエスさまの祈り」、それは『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23章34節)。口語訳では「自分が何をしているのか分らないのです」となっていますが。それはまさに、ゆるしと受容の祈り。ここに主イエスの祈りの原点がございます。
自分では何をしているのかが分からない者たち、自分のことが分かっていない者たちであることをイエスさまはご存じのうえで、父の神に執り成し祈られるのです。
私たちも又、このゆるしと受容の中で生かされていることを今一度覚えたいと思います。
話は逸れますが。何でも鑑定団という番組がありますが。まあ、お宝かごみ同然となるようなモノかを鑑定し、見分けることは、本物を知っている目利きでないと見わけがつきませんよね。
それ以上に、人を見抜くということってほんとうに難しいです。人は状況によって如何様にも変わりゆくものだから、難しいものです。そのうえ自分のことさえよく分かっていない、そんな自分が人を見抜く何て、とんでもないことなのかも知れません。
しかし、イエスさまは、どのような人をも見抜く、ご存じであられるお方なのです。
その上で、どのような人に対しても、変わることのない眼差しを注ぎ、執り成し祈ってくださるお方なのです。
主イエスの祈りは、人を立ち帰らせ、希望へと向かわせる力があります。
この後、イエスさまはゴルゴダの十字架にかかって死を遂げられますが。散り散りバラバラになって逃げ去っていたペトロをはじめ弟子たちに、復活の主イエスは出会われるのです。
ここでペトロは本当に主イエスに立ち帰っていくこととなるのです。そうしてさらに聖霊降臨を経験してから、兄弟たちを励まし、迫害や世の惑わしに抗いながら主イエスの福音を大胆に証しし続けていったのです。
もはや、そこにはかつてのペトロの姿はなく、ゆるしに応えて生きる者の姿があったのです。
私たちも、この主イエスの祈り、ゆるしと受容の愛によって今、生かされていることを心に留め、今週もここから日々主の福音を証する者として遣わされてまいりましょう。