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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

花と禅その6 <無私無欲は生への絶望でなく生きる意欲>

2017-12-04 | 心のやすらぎ・豊かさ

171204 花と禅その6 <無私無欲は生への絶望でなく生きる意欲>

 

仕事が忙しくない状況なのに、毎日なにかと忙しくしていつの間にか一日が終わるというのは、いいことか悪いことか。なんにも考えていない結果なのでしょうかね。

 

計画や目標を立て、そのために日夜邁進し、一歩一歩前進する、そんな心持ちはなかなかなれないようです。強いて言えば、この千日ブログくらいが目標と言えばそうかもしれないですが、それにかける時間はわずか。それ以外は別の事柄で心が動かされ、自分で制御できていないのを振り返ると見えてきます。

 

そんな不甲斐なさを感じているとき、平井住職の言葉「『無私無欲= やる気のない心』ではありません」という見出しの中に書かれた内容になにか感じるものがあります。

 

平井住職は、禅宗の僧が求める「無私無欲」と「意欲」を対比させながら、両者の真意を説きます。

 

「意欲」は「人を行動に駆り立てるのは、あるいは、目標に向かって進むエネルギーになる」として、それは「心の欲」として、「生きていく上で非常に大切なものなのです。」と断言します。

 

一見矛盾対立しそうな「無私無欲」と「心の欲」をどのように取り扱うかについてこう述べています。

 

「人は“わたくし心” にとらわれがちだし、“わが欲” にまみれやすいものです。だかそ

らこそ、削ぎ落とす、捨てる、という作業をつねに怠ってはいけない。」

 

では具体的にどうしたらいいのでしょうというとき、ある人物を取り上げます。「西郷隆盛は、山岡鉄舟先生を「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と評しました。」と。

 

その鉄舟先生について、平井住職は「その鉄舟先生には、揺るぎない信念、曇りのない心がありました。敵陣のまっただ中に堂々と入っていく行動力、胆力、それを支えるあふれんばかりの“意欲” があったのです。わたくし心、わが欲を削ぎ落とした姿、ことにあたって自分の損得を考えない、見返りを求めない姿を、そこに見ることができます。」

 

さて、これでわかる人もいれば、わからない人も大勢いるでしょう。平井住職はその答えを自らの著作「『最後のサムライ山岡鍛舟』(園山牧田・平井正修編/教育評論社刊)の中に導いているようです。

 

山岡鉄舟といえば、40年以上前に、幕末関係の著作を読んでいた頃、気になった存在ですが、新渡戸稲造著作「武士道」を体現するような人物だったかもしれませんね。

 

それはやはり一つの理想的な生き方と評されても良いと思います。ただ、武士のありようと、当時としては農民を含む百姓(百姓の実態は農民が大半だとしてもそれ以外の兼業も含めて多様な職業人を指すとの理解です)がほとんどだったわけで、その生き方にも理想的なものがあったように思うのです。私自身は後者に強い関心を抱いています。

 

強い意欲を抱きつつ、無私無欲な生き方をした百姓は少なくなかったと思うのです。私がいま心にかけている大畑才蔵もそれに匹敵する人物ではないかと思っています。さらに同時代の田中丘隅、その後の伊能忠敬など、教科書に取り上げられている人だけでも相当数いると思います。それは極一部で、歴史の中に埋もれている人は多数だと思うのです。

 

たとえば、帚木蓬生著『水神』に登場する庄屋もその一人でしょうか。全国各地に、歴史の表舞台に登場しなかった「花のように、生きた」百姓は数多くいたと思うのです。

 

で、私は無私無欲を追求することもできず、意欲もお粗末ですが、できたらそんな「花」のように生きることができればと思うのです。


ここまで来て見出しを書いたときの動機をうっかり忘れていたことに気づきました。そう、生きる意欲を失う、あるいは失いそうになる、そういったときどうしたらよいか、その答えを求めようとしたのでした。

 

平井住職は「意欲」という人には必ずあり、それを無私無欲の観点から削り落とす方向を示されているように思います。ではその意欲すらなくなりそうなとき、どうしたらよいか。

 

平井住職は、いろいろな言葉で多様な観点から述べているように思います。たとえば、「絶望におちいったときは、食べなさい。眠りなさい」とか。「一日一言を大切に生きなさい」そうすれば「苦しさのなかにもやすらぎが見つかる。」とか。

 

この命題はもう少し平井住職の言葉を整理して、述べてみたいと思います。



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