たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

親の愛情と責任 <もう二度と 相模原殺傷事件1年 笑顔の娘、今もまぶたに>などを読みながら

2017-07-26 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170726 親の愛情と責任 <もう二度と相模原殺傷事件1年 笑顔の娘、今もまぶたに>などを読みながら

 

今朝はどんよりした雲が天空を席巻していました。雲の動きも不穏な感じで、いつ降り出すかわからないような思いでした。ところが天気予報は曇りマークで降水確率はわずか。ほんとかいなと信用する気になれませんでした。この異常気象と局地的な気象変化には現在の天気予報では対応できないのでしょう。

 

案の定、朝食を済ませて、花に水やりをしようと外に出ると、ザッと落ちてきました。勢いよく雨が落ちてきて、雷もゴロゴロ鳴っています。やはり空模様は嘘をつかないなと思ってしまいました。

 

昨年の今日起こった見出しの事件、ほとんどの人がショックを受けたと思います。私自身、過去に同様の施設を定期的に訪問していたので、とてつもない衝撃を受けてしまいました。もし私が知っている方が被害に遭っていたらと思うと、ご家族の顔を思い出し、愛情一杯に接していたので、亡くなった方の遺族同様、誰にもいえない苦しい辛い思いをされたと思います。

 

相模原殺傷事件の被害者のご家族は、長く沈黙を通されていました。でもこのままだと自分の愛らしいこどもの生きた証が失われてしまう、理不尽な野蛮行為で奪われた命がいかに輝いていたか、本人も家族もともに喜びを分かち合えたことが、知られないまま、障がい者に対する社会の誤解が広がることを心配した親たちが少しずつ表に現れるようになったように思います。

 

記事では、ある女性の母親が描いたその子の似顔絵が掲載されています。そして<植松聖被告(27)は「障害者は不幸を作る」と繰り返した。>ことに母はとりわけ傷つけられたのだと思うのです。

 母は<「娘はキラキラした瞳で、多くの人に安らぎを与えてくれた。障害を持っていても、いろいろな力を与えてくれた。障害者が不幸なのではなく、そう思うことが不幸だと思う」

 裁判では「娘は不幸ではなく、無駄な命はないことを伝えたい」と思っている。>

 

子どもの突然の死、それも信じられないような理不尽な行為によって訪れた死に、親や家族は、なかなかそのことを受け止められなかったのかもしれません。また、こういった野獣のような暴力で被害を受けたなら当然のようにその心情を吐露し、子どもへの愛情を示すのが普通の親であるのに、長く沈黙を守ってきたように思うのです。

 

別の記事<もう二度と相模原殺傷事件1年 笑顔輝く君よ>によれば、事件から一年を迎えようやくその心情を吐露したり、愛らしい子どもの姿が写っている写真を提供したりして、親として子の充実した生きた証や家族が障がいを通じて助け合ってきた姿を示すようになりつつあるように思います。被害者となった多くの子どもたちの写真が掲載されています。

 

障がい者の子を持つ親としては、その姿を社会に示すことは、わが国ではまだまだ容易でない事情があると思います。しかし、どのような障がいがあっても、子は授かった命を懸命に生き、親もその姿に感動しながら、真の親になれた部分もあるのではないかと思うのです。

 

私自身、わが子にどのような障害があっても、その子とともに生きていくことが親のつとめでもあり、親になれる試練と思っていました。多少の病気はあっても障がいはなかったのですが、子がいつどのような事態になっても助けるのは親のつとめと思っています。それによって私自身が人間になれるのではないかと思ったりしています。助けることは自分自身がほんとは助けられるのかもしれないとも思うのです。助け合いというのは、助けるという行為の中に本来は自然に成立するのではないかとも思うのです。仮に一方的に助けるという気持ちでやっていれば、そこには真の助けにはならず、一方に負い目を感じたり、助ける方も負担になるように思うのです。

 

さて前置きが長くなりました。見出しの「親の愛情と責任」は、被害者の親についてというより、加害者の親について言及しようと思ったのです。

 

これまでの報道では、ほとんど加害者の親の状況はわかりません。むろん植松被告人はすでに26歳で、年齢的には独立した成人です。親の法的責任を問う話ではありません。

 

しかし、と私は思うのです。親としての倫理的責任は別だと思うのです。私の子が万が一、なんらかの重大な被害を他人に与えた場合、成人しているかどうか関係なく、親としての責任を免れようとは思いません。おそらくわが国の親はそのような意識を持つ人が少なくない、と思うのは現代では少ないのでしょうか。私は子の世話になるような生き方はしたくないですが、子が起こした不祥事が私の育て方になんらかの要因があると感じたら、それは親としての責任を甘んじて受けたいと思うのです。

 

とりわけ今回の異常事件は、植松被告人の事前の言動、事後の言動を見ると、その生育環境に大きな影響があったとの印象をぬぐえないのです。

 

私がウェブ情報で得たのは<相模原市の殺傷事件容疑者と両親の怒鳴り合いが近所に響くことも>といった概要的なものしかありません。それでも一つの参考になるかと思うのです。

 

彼は大学生の時、<将来に不安を覚えるようになっていく。刺青をいれたのは、その頃だった。>というのです。このこと事態、彼の両親はどう考えていたのでしょうか。

 

 <彼の不安は的中した。小学校の図工の教師をしていた父親の影響か、「幼少の頃から父親と同じ小学校の先生を目指していた」(近隣住民)という植松だが、夢だった教員の採用試験に合格することができなかったのだ。>というのですが、小学校の先生を目指していた人間が刺青をすること自体、ありえないことでしょう。

 

 <この頃の植松の様子を友人のひとりは、「あまりのショックで、一時的に引きこもりに近い状態だった」と話す。>これが真実なら、植松被告人はすごく気の小さい、おどおどしたところがあったのかもしれません。その彼に対して、両親が小さい頃から教師になることを強く求めたのかもしれません。でないとその教師になれないことの不安で刺青をしたりすることはありえないように思うのです。

 

一回の不合格で、引きこもりになったり、別の仕事に就くということも、本当は自分の希望ではなかったと思えるのですがどうでしょう。

 

ただ、卒業後<飲料メーカーの配送員として勤務するも、「給料が安すぎて、経済的にキツい」といって半年で退社。>というのですから、耐えることを家庭で学んでいない印象です。

 

<「長続きしない仕事のことや刺青の件で両親と頻繁に言い争いをするようになったようです。特に刺青に関しては、教育実習時の生徒や近隣住民に知られてしまい、両親が“消せ”と迫っていたそうです。夜中にお母さんが畳をバンバンと叩きながら泣き叫ぶ声も聞こえました」(近隣住民)>両親が彼の刺青を問題にしていたことはわかりますが、なぜ彼が刺青するに至ったか、そのことに両親が心を砕いたのでしょうか、単に感情的に責めるだけでは問題の解決とはならないでしょう。

 

その直後には<植松は事件の現場となった「やまゆり園」に非常勤として勤務。翌年4月に常勤の社員になった。>それも<「“小学校教師はハードルが高いから特別支援学校の教員を目指す”といっていました。その足掛かりとして、障害者施設に入ったそうです。>という安直な考え、それを許容する両親の態度には疑問を感じます。飲料メーカーの配送員がつとまらない人間が、小学校教師になるためにハードルの低い?特別支援学校の教員となる足がかりのため障害者施設に勤務するといった考え自体、障がい者に対しても、教員、教師に対しても失礼なもので、そのような彼の姿勢を両親がなぜ許したのか、疑問です。

 

<最初は仕事にやりがいも感じていたようですが、次第に“仕事が大変だ”と愚痴をこぼすことが多くなった。植松の体に刺青がどんどん増えていったのもこの時期です。

 両親の反対を無視して刺青を増やしたものだから、関係はさらに悪化。2013年の冬についに両親は、新たに中古マンションを購入して引っ越してしまったそうです。もはや親子関係は修復不能だったのでしょう」>

 

障がい者施設で働くこと自体、その当時の彼には無理があったのだと思います。それを無理に勤めさせ、継続を求めたことが、刺青の数を増やす要因になった可能性があります。

 

彼の両親、<図工教師を父に持ち、母親は美大出身で漫画家。>ということから<芸術一家に生まれ育ったためか、植松も刺青にのめり込んでいった。>という指摘がありますが、それは飛躍があるように思うのです。刺青というのは特殊です。両親が刺青についてなんらかの影響を与えたのなら別ですが、刺青に反対していたことからそれは考えにくいと思います。

 

両親がどのような子育てをしてきたかは、皆目わかりません。ただ、いえるのは両親いずれも芸術的な事柄に熱心だった可能性があるものの、子どもの感情に接する姿勢になにか問題があったことを感じられるのです。教師になることへの不安ということ自体が、両親からの圧力を感じさせます。その不安から刺青というのだとすると、彼自身家庭の中で心の自由がなかったことを感じてしまうのは少し飛躍がありましょうか。

 

いずれにしも、これだけの大惨事を侵した植松被告人と23歳ころまで一緒だったのですから、両親はその生育環境について、きちんと説明して、被害者および遺族の人たちに、真摯な思いを表すのが、人としての、親としての倫理的責任ではないかと思うのです。それは親は関係ない、過大な要望ではないかとの非難もあるとは思いますが、少なくとも私であれば、そうありたいと思うのです。