たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

いま大学は <仏教系大学を儒教系法人に譲渡、学生8人が国を提訴>などを読みながら徒然に考えてみる  

2017-07-11 | 教育 学校 社会

17011 いま大学は <仏教系大学を儒教系法人に譲渡、学生8人が国を提訴>などを読みながら徒然に考えてみる

 

いつの間にか7月も初旬、今日は山の日だそうですね。暑くなるのが当たり前ですか。若い頃の夏の過ごし方は沢登りでしたね。暑さを楽しめました。いまはとてもそんな元気はないですね。とはいえ住む場所が涼風に恵まれたところが多く、今の住処も、これまで一度も扇風機を使ったことがありません。むろんクーラーは買った新品のまま。やはり下には河が二本流れていて、水田もあり、そこに下る斜面地は1520mくらいあるのでしょうか、緑地です。そんないい案配のせいか、網戸越しの涼風で夜中必ず目が覚めます。冷えるのです。贅沢な悩みですが、冬はきっと寒いだろうと、いまから覚悟しています。

 

さて国会は獣医の「岩盤規制」?に穴を開けるということで加計学園問題が文科省を中心に大変な騒動ですね。大学新設ってそんな大変な事かと、いまさらながら思ってしまいます。

 

他方で、今朝判決のあったことを報じた記事<共同研究汚職阪大元教授に有罪判決 大阪地裁>では、私も以前、取り上げた事件の元教授に執行猶予付き懲役刑が処断されました。こちらは耐震工学分野の権威と言うことで、昨日の記事<特集ワイド阪大汚職、あす判決 成果に疑念、招かぬ教訓に>では<「被告人を失うことは、我が国の大きな損失だ」--。裁判では12人の研究者が提出した嘆願書が読み上げられた。>というのですから、倉本氏の才能は傑出していたのでしょうね。それだけが量刑理由ではないでしょうが、案の定、<懲役3年、執行猶予5年、追徴金1288万円>というはぎりぎりの執行猶予付き判決でした。相場と言えば身もふたもないですが、ま、そんなところでしょうか。

 

ただ、渋沢栄一翁が生きていたら、才長けても、モラルを欠いていれば評価に値しないと歯牙にもかけないでしょうけど。

 

なぜモラル、道徳心を欠くような人を高い技術力があると言うことで、教授に採用し、企業との共同研究の促進を許したのでしょうか。それがいま国立、私立を問わず、大学が経済的な「自立」を迫られている状況にあることが背景にあるのではないかと思うのです。

 

上記の毎日特集記事は、その一端に迫る内容かと思います。ところで、文科省は大学のコンプライアンスを適切に指導・監督する責任があるのではないかと思うのですが、どうもそういう体制にはないのかもしれません。獣医を巡る問題、耐震工学という先端技術を巡る問題、そして次に取り上げる宗教という問題、いずれも二の足を踏んでいる雰囲気を感じます。

 

今朝の朝日新聞では<仏教系大学を儒教系法人に譲渡、学生8人が国を提訴>という見出しで、<仏教系の苫小牧駒沢大(北海道苫小牧市)が儒教系の学校法人(京都市)に経営譲渡されることを巡り、同大学の学生8人が10日、国などを相手に、大学側の変更申請を認めないよう求めて東京地裁に提訴した。>を報じています。北海道の事件ですが、文科省()を被告としているので、霞ヶ関の司法記者クラブで大々的な記者会見ですね。

 

提訴者の言い分は<学生らは「住職になるため仏教系大に進んだのに、儒教系の学校法人に譲渡されたら資格が取れない」と訴えている。>とのことです。なんとなくわかったようなわからないような内容に感じるのは私だけではないように思うのですが。

 

問題にする経営譲渡ですが、記事では<学校法人駒沢大学は3月、経営難を理由に苫小牧駒大の経営を、建学の精神に儒教の教えを掲げる学校法人京都育英館に変更するよう文部科学省に申請。8月に文科省が可否を判断する。>となっています。

 

大学の経営が厳しいというのは、全国各地でかなり以前から問題になっていますね。その場合の企業体としての経営判断は、破産、再生といった道のほかに、経営譲渡やMAないし合併が考えられますね。一番問題になるのは、破産といった場合です。そのとき学生は、職員はどうなるといったことです。

 

現在の法制では、職員は労働法制で一定の雇用保険などで一定のセーフティーネットがありますが、教員の場合教授職・准教授職などは自分でどこかに職探しになるのでしょう。それよりなにより学生はどうなるのでしょう。基本的にはなんの保障もないですね。

 

この点をアメリカ法制と比較しながら研究論文を発表しているのが岩崎保道著「私立大学における倒産処理策構築のための政策研究」です。岩崎氏は、過剰な大学設立による危機的状況にあることを示しながら、日本私立大学連盟の「学校法人の経営困難回避策とクライシス・マネジメント(最終報告)」の中にある「学生の身分・学籍管理等に関するセーフティ・ネットの構築」について、その必要性を強調しています。

 

この発表の翌年05年、文科省も<経営困難な学校法人への対応方針について>を発表し、現在もこの方針がホームページで掲載されています。その中で<学生の就学機会の確保>を他の大学との連携等でなんとか乗り切ろうと行った弥縫策ともいうべき内容となっています。とても確立した制度とはいえないでしょう。

 

いろいろと資料を援用してきましたが、大学は私立はもちろん国立も自助努力が基本で、ましてや学生は受益者に過ぎないという法的な位置づけの基、とはいえなんとか緊急の救援策を講じようとしているかと思うのです。ただ、文科省の10年以上前の方針がより具体的で実効性あるものになっているかは、ちょっと調べたくらいではわかりませんでした。印象としては進んでいないと感じています。

 

で、本題に戻ります。日経新聞によると<苫小牧駒沢大を経営譲渡 駒大、苫小牧高は運営継続>の見出し記事では、<駒大によると、2016年度内に必要な手続きを文科省に申請する。教職員などの態勢に当面変更はなく、学生募集も京都育英館の経営下で引き続き行う。今月12日現在の学生数は、4学年合わせて189人。>と、経営譲渡後も、教職員の地位や、学生の身分は保障されるようです。そのために経営危機への他の法的手法を選ばず、経営譲渡という方式にしたのでしょう。

 

その危機的状態は深刻です。日経記事は<苫駒大は1998年4月、定員200人で開校。年々入学者が減り、学科の改組や定員削減を進めたが、2008年度に採算割れしていた。15年度には2学科計150人の募集に対し入学者が29人で、17年度はうち1学科の募集を停止した。>これでは事業継続を断念しないほうがおかしいですね。

 

ところで駒大が運営係属する駒澤大学附属苫小牧高等学校は、高校野球で甲子園連続優勝など全国的な評判になっただけでなく、あの田中将大投手を育てた高校として多くの人の心に刻まれていると思うのです。

 

そこで私は不思議な連想をしてしまいました。どうも宗教系の学校の中には、甲子園で優勝するなど有名になるために、高校野球の有力選手、監督を集めて、その宗教活動のために活用している印象を抱いてしまうのです。そしてそこに本来の宗教的な教育はなく、営利・広報的な目的のために球児も監督も存在するのですから、どこかに無理・破綻がきてもおかしくありません。PL学園、苫小牧高、いずれも不祥事が発生しました。ほかにも少なくないように思うのです。

 

宗教本来の目的のために大学や高校が営まれるのであればいいのですが、どうも本来の目的から逸脱した状況で運営されてきたように思ってしまいます。

 

他方で、学生はどうでしょうか。今回の裁判では、朝日記事で、<提訴後に会見した原告の男子学生(19)の父親、成澤廣仁(こうじん)さん(58)は「突然テレビで知り、子どもは不安の中にいる」と話した。釧路市の寺を継がせる先行きは見えず、「大学から説明も何もない」と憤る。>

 

ここに<寺を継がせる>ということが当たり前のように父親から発言されています。まだ子どもが未成年だから父親が親権者として原告となり、発言しているのでしょうか。ただ、子が寺を継ぐことが当たり前ということではないのですね。本来の宗教、仏教思想からすれば、住職の地位を相続するなんてことは当然ないのです。それがある時期から当然のように思われてきた不思議があります。そのため、最近では子どもがいやいや宗教系の大学にいかされる、逃げて帰る、そんなことが頻繁に起こっています。

 

私は、この学生自身の声を聞きたい気持ちです。この大学は<15年度には2学科計150人の募集に対し入学者が29人で、17年度はうち1学科の募集を停止した。>というのですから、誰でも入れたのかもしれません。本来、宗教の道を歩もう、寺を継ごうという、高い意思を抱いているのであれば、難関校を狙うくらいの能力・気力があるでしょう。いやいや行かされているといのでなければよいのですが。

 

さて仏教系から儒教系の大学に変わるということで、記事では<曹洞宗宗務庁によると、同大学は曹洞宗系で、仏教専修科を修了すれば、曹洞宗の寺の住職になる資格の一部を満たすという。>けれども、<曹洞宗宗務庁は「苫小牧駒大には僧侶輩出機関のままでいて欲しいが、悩ましい問題だ」と話した>ということは、当該仏教専修科がなくなる可能性が高いのでしょうね。

 

文科省の<経営困難な学校法人への対応方針について>では、大学が破綻したことを前提に、<学生転学支援プログラム>を用意しようとしていますが、経営譲渡の場合でも応用が利く範囲ではないかと思います。なにせ協力支援ですから、柔軟な取り扱いが可能でしょう。でも、近隣大学とかほかの大学でとなると、マイナス倍率のこの大学レベルの学力でも引き取ってくれるかとなると、それは無理な相談かもしれません。

 

では、原告側の変更申請を争う法的根拠は何でしょうか。そもそも原告適格があるかが問題となり、私にはどうも現行法制の中では無理ではないかと思うのです。むろんそれがいいとは思いませんので、この訴訟の中で、学生の法的地位を高める議論を展開して、門戸解放の金字塔をたててもらいたいと期待しています。

 

とはいえ、次の違法の理由が問題でしょう。違法の根拠も難しいですね。まだ変更申請の手続き中のようですから、変更許可あるいは認可でしょうか、その処分の仮差し止めでしょうね。それも厳しいですし、本差し止めもまた厳しい。

 

仏教系が儒教系に変わることは、それはおかしいというのは、気持ちはわかります。しかし、大学経営の自由を認めていく中で、宗教性や学科の内容については立ち入らないのが文科省のスタンスではないかと思うのです。ま、弁護士がどう法的構成して、違法論を立てていくか期待したいです。

 

でもマイナス倍率の大学に入学したこと自体、法的評価は別にして、僧侶として出発するのに選ぶ学校として、檀家や周辺からも、いや国民目線にたったとき、そんなにその大学の学生の地位を評価してもらえるか、気になるところです。

 

宗教系、曹洞宗も含め仏教系の大学はあまたあるように思うのです。獣医になれるような大学の場合はきわめて限られているのは今回の加計学園事件でよく知られたとおりですが、その大学が薬科大学とか、ほかの医療系大学に変わったら大変ですが、どうでしょうかね。比較する例としては適切でないことはわかりますが、なんとなくしっくりこないのです。原告の訴えも(訴状を含め内容を見ていないので大ざっぱな感想ですが)。

 

さて、今日は長々と書いてしまいました。もう6時半です。これでおしまいとします。