たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

虐待された子どもへの配慮 <日弁連新聞・司法面接の取り組み>を読んで

2017-07-17 | 家族・親子

170717 虐待された子どもへの配慮 <日弁連新聞・司法面接の取り組み>を読んで

 

日弁連新聞の上記記事を読んで、司法面接の内容について取り上げようと思ったのですが、どうも今日はタイピングが長時間に耐えられそうもないようですので、今後、いつかこのテーマで書くときの材料提供として、いくつかのウェブサイトを援用するにとどめます。

 

東京弁護士会では当時まだ委員会もなく少年問題への意識が低かった頃、私の仲間たちが子どもの権利を確立しようと、運動を立ち上げ、私も当初だけ参加したことがありますが、いろいろ苦難を経て子どもの委員会ができ、すでに20年以上経過しているようです。 

その会報で特集があり<子どもの権利保障のために弁護士は何をしてきたか>でその運動の一端が取り上げられています。

 

その中に、<司法面接>の項目もあり参考になるかと思います。

 

子どもの虐待のない社会を目ざして 坪井節子さん(弁護士・カリヨン子どもセンター理事長)>も体験に基づき、虐待支援や司法面接を担っているカリヨン子どもセンター理事長ですので、生きた言葉ですね。

 

内科医の山田不二子理事長が行っている<チャイルドファーストジャパン(CFJ)>も尊重したいですね。

 

今日は中途半端ですが、これでおしまいです。


宅配と人の気持ち <細る「イエ」 宅配送骨>を読んで

2017-07-17 | 企業活動 コンプライアンス 公正取引

170717 宅配と人の気持ち <細る「イエ」 宅配送骨>を読んで

 

この記事を見てびっくりです。「宅配送骨」という言葉ですね。たしかに宅配は有毒物質や爆発危険性のあるものなど、一定のものを運送することはできません。

 

国交省告示の「標準宅配便運送約款」によれば、第6条で運送の引き受けを拒絶できる場合として次の項目を挙げています。

 

<一  運送の申込みがこの運送約款によらないものであるとき。

  荷送人が送り状に必要な事項を記載せず、又は第四条第一項の規定によ る点検の同意を与えないとき。

  荷造りが運送に適さないとき。

  運送に関し荷送人から特別の負担を求められたとき。

  信書の運送等運送が法令の規定又は公の秩序若しくは善良の風俗に反するものであるとき。

  荷物が次に掲げるものであるとき。

  火薬類その他の危険品、不潔な物品等他の荷物に損害を及ぼすおそれのあるもの

  その他当店が特に定めて表示したもの

  天災その他やむを得ない事由があるとき。>

 

日本郵便やヤマトなどは個別に詳細な約款を用意していますが、基本は上記の内容でしょう。

 

それでは「宅配送骨」というネーミングされている遺骨はどうでしょうか。約款上は引き受け拒絶できないでしょうね。すると普通に宅配便として送付されることになるでしょう。

 

毎日の連載記事<明日がみえますか第5部 死と向き合う/2 細る「イエ」 宅配送骨>では、それを取り上げています。

 

<日本郵便の宅配便「ゆうパック」に遺骨を詰めて寺院に送り、永代供養墓に埋葬してもらう「送骨サービス」が注目を集めている。1件数万円と安価で、寺院に出向く必要もないと評判になり、インターネット上には送骨を扱う仲介業者や寺院などのサイトがあふれている。>

 

当然このサービスの仕掛け人は日本郵便ではないですね。<「永代供養ネット」を運営する仲介業者「プロ」(名古屋市)は全国の約40の寺院と提携し、毎月30~50件の申し込みがある。料金は3万~5万円で、2010年のサイト開設以来、依頼数は右肩上がりだ。>

 

むろんこういった業者も仲介するのみですから、依頼人がいるわけですね。<神奈川県厚木市で1人で暮らす男性(65)も送骨の利用者だ。4月末、かつて内縁関係にあった女性の遺骨を、NPO法人「終の棲家(すみか)なき遺骨を救う会」(東京都世田谷区)にゆうパックで送った。救う会は遺骨の扱いに困った人の埋葬の支援をしている。>まずはNPOですか。

 

でもそこに依頼する人こそ、まさに現在の「個人社会」の一面を代表しているように思えます。記事で詳細が語られています。

 

家族関係の崩壊が背景にあるのでしょうか。記事は<家族が身内の弔いを拒否し、自治体が税金で火葬・埋葬するケースが増えている。家族関係の希薄化と貧困が背景にあり、送骨はこうした社会の受け皿になっている。>といっています。

 

この「宅配送骨」の最後の引き受けて、まさに遺骨処理の終局のプレイヤーは、<送骨を前提にした納骨堂>を運営する寺です。

 

<全国からネットで送骨を募った愛媛県伊予市の寺院が、納骨堂の運営を不許可にした市の処分取り消しを求めた訴訟。松山地裁は13年、住職との面談や宗派の制限なく安価で遺骨を受け入れる手法について、「商業的な印象は否定できない」と訴えを棄却した。寺側が2審も敗訴して判決は確定した。>

 

このケースを判例データベースで調べると

 

一審松山地裁(判例地方自治390号77頁)は、対象となった納骨堂について、寺院の境内につくられ、「コンクリートによって築造された前部が階段状となっている構築物であり、その内部には6段の棚が、後部にはアルミ製の引き戸が設けられている。棚上には骨壺を並べて焼骨を安置することができ、階段部分の上には、家名を彫った墓石のようなものが並べられている。」と判示しています。

 

原告の寺院は、納骨堂でないと争っていますが、当然ながらこれはばっさりと否定されています。

 

で驚いたのは、一審が墓地埋葬法第1条の目的規定にある、「国民の宗教的感情」への適合性を根拠に、納骨堂経営不許可処分を適法と結論したことです。

 

その点、一審は、原告寺院の事業内容そのものを問題にしているのです。

 

ちょっと長くなりますが、引用します。

「〈1〉本件不許可処分の当時、インターネットを通じて全国から利用者を募集し、郵送により焼骨を受け取るという方法による納骨堂の運営形態が広く一般的に利用されていたとは言い難い状況下にあったことに加えて、〈2〉宗旨・宗派を問わないとする点や、〈3〉殊更に安価な価格であることや、遺骨を持参して住職と面談することなく郵送により受け入れるなどと簡便であることを強調していることなどを総合的に勘案すると、前記(1)のような利用者の募集方法が、商業主義的との印象を与えるものであることは否定し難い。また、原告は、利用者を募集する際に、その受入可能数を明示しておらず、原告が、当該地域はもとより原告とすら何ら縁のない遺骨を無制限に募っているとみられかねない事情もあった。」と事業の問題性を指摘します。

 

そして、このような事業形態は、「被告地域における風俗習慣等に照らし、前記のような本件施設の運営方法が、地域住民の宗教感情に適合しないものであるとした被告の判断が、合理性を欠くということはできない。」として、上記の判断を導いています。

 

二審の高松高裁も(判例地方自治390号75頁)、一審判断を支持して、控訴を棄却しました。どうやら、違法判断の根拠とした上記の点について、行政指導で指摘されたおらず、不許可処分の決定の中で初めてでてきたことが問題にされていますが、むろんこのような議論はよほどの事情がないと通用しませんね。

 

ともかく、「送骨パック」を前提として全国展開する永代供養方式が裁判を通じて墓地埋葬法上の核心的利益を脅かす可能性のあることが問題となり、裁判所は積極的に解して、行政判断を是としたのです。

 

ただ、地域性を吟味しているなどから、直ちにこの裁判例が各地でのこういった事業(あるいは商売)に大きな支障となるとは限らないと思います。

 

それにしても、毎日記事で<聖徳大の長江曜子教授は「健康上の不安があるなど、やむを得ない事情で『送骨』を利用するのは仕方ない面もある。だが、商業主義や利便性を優先して遺骨を扱うことには違和感がある。死者の尊厳をもっと大切にしてほしい」と苦言を呈した。>と指摘されているように、いま新たな葬送のあり方が問われているのだと思います。

 

たしか私の記憶では、アメリカの散骨方式では、20年以上前にすでにネット広告ですでに類似の方式が大きく取り上げられていたと思います。

 

ネットの便利さと受け入れる地域の事情を十分考慮して、考えていく必要を改めて感じます。

 


世界遺産の見方 <沖ノ島の一括登録 文化庁長官の水彩画が威力>を読んで

2017-07-17 | 古代を考える

170717 世界遺産の見方 <沖ノ島の一括登録 文化庁長官の水彩画が威力>を読んで

 

今朝も寒さで目覚めたのですが、温度は25度。熱帯夜ということでしょうか。でも網戸から入ってくる涼風が寒さを感じるのでしょうか。これが都会では、エアコンの外部機から放出される熱風が密集したビル、密集住居地では大気の気温が相当高まっているわけですね。エアコンの外部不経済?というか、とても窓を開けて涼風を家の中に入れるといったことにはなりそうにないですね。京都の密集した町屋でも、いまだうまく外気を取り入れる間取り・構造を維持しているところがありますが、都会だから絶対だめと言うことではないのでしょうね。でも現在のように余裕のない敷地単位と配置だと無理な話かもしれませんね。

 

カナダ西部のBC州西海岸は地中海気候に近いため夏でも割合過ごしやすいのです。と同時に、北米特有のゾーニング制が分譲地内での密集制を緩和させていて、建物配置を敷地内で制限され、周囲がセットバックでスペースが担保されていることもあり、自然の涼風で夏場も過ごせ、冷房機は必要としないように思います。自然の涼風を活かす都市計画、分譲地づくりを、わが国ではするゆとりがない中で、急激なマイホーム需要に対応した結果も大きな要因かもしれません。

 

さて話は変わって、今朝の毎日記事<世界遺産:沖ノ島の一括登録文化庁長官の水彩画が威力>は、イコモスが限定した隠岐の島などの島嶼のみの構成遺産の判断を覆し、本土の宗像大社辺津(へつ)宮などを一体的な構成遺産<古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」>として、ユネスコの世界遺産に登楼された経緯を披露しています。

 

宮田亮平文化庁長官が各国のユネスコ大使に事前説明している段階で、言葉では伝わらないと感じて、<「芸術には言葉はいらない」。絵で表現することを思いついた。>とのこと。

 

それからの行動が芸術家の心が騒いだのか、唐突ながら思い入れのある行動ですね

<自宅に絵の具はあるが、画用紙がない。仕事を終えた後、10円玉を持って深夜のコンビニへ。コピー機の読み取り台に何も置かずスタートボタンを押して出したA3判の紙に、夜ごと絵筆を握って3日間で描き上げた。

 本土から大島、沖ノ島を望む構図にし、玄界灘の水色や木々の緑色を繊細なタッチで描写した。荒波は黒色を使い、無事になし遂げるためには「祈り」が必要だった古代の航海の厳しさを表現した。

 世界遺産委当日、会場入り口で原画を見せ、資産名をアルファベットで記したカラーコピーを委員国大使に手渡した。激励してくれる人もいて手応えを感じた。>

 

と涙ぐましい長官自らの努力が功を奏したということで、めでたしめでたしですね。

 

ところで、画用紙くらいどこでも手に入れられるし、部下に命じればすぐ手元に入ると言った疑問は品のない話かもしれません。ただ、長官がみずから絵筆をもって描いた絵が多くの感動を誘った、その構成資産の一体化が理解できたとしたら、それはほんとうの意味で世界遺産の価値を理解したといえるのか疑問に感じてしまうのは、別にイコモスに同調するためではありません。

 

たしかに宮田長官が言われるように「芸術には言葉はいらない」ということは正鵠を得たものでしょう。しかし、それが世界遺産の評価を芸術という表現で示すとしたら、それは少し違うのではないかと思うのです。宮田長官の真意はその言葉では表しきれないものかもしれないので、記事で取り上げられた表現をいたずらに批判するつもりはありません。

 

ただ、先にこの<古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」>登録時にも言及したように、その歴史的・考古学的・宗教的価値を適切に解説する努力がされないと、世界遺産の価値が単に観光名所に新たな付加価値をつけるだけに終わりかねない危険を感じています。

 

すでにわが国には多くの世界遺産が登録されてきて、さらに今後も増える傾向にあります。しかし、たとえば高野山や熊野、吉野の世界遺産のそれぞれの価値と関連性がどこまで理解されてきたのでしょうか。いやそういう理解が広まるような努力が継続されているのでしょうか。高野七口で登録されていなかった黒河道などが追加登録されたこと自体は意味があるとは思いますが、それが高野山信仰とどう関係し、七口相互の意味合いが深まったといえるのでしょうか。単なるルート開設と整備、それを観光ルートの一つに追加するだけでは、世界遺産の価値を理解することも体現することもできないように思うのです。

 

<古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」>では、宗像信仰、宗像神社とそれを支えたとも考えられる宗像族、その代表としての仲哀天皇と、それに変わって政権を取ったかもしれない、応神天皇をリーダーとする住吉族、それを信仰する住吉神社や八幡神社の各地での普及をどうみるか、日本の歴史をどうとらえるかといこととも関係する問題が内包しているように思うのですが、そのような議論が深まることを期待したいと思うのは私一人ではないように思うのです。

 

海の正倉院といわれる沖ノ島がなぜ海上に成立したのか、当時の海上交通、交易の実態を追及することなしにはその重要性を理解することにつながらないように思うのです。4世紀ころの遺跡ともいわれていますが、それ以前、弥生・縄文に遡る海上交通と交易との連続性やなんらかの革新的事態を理解することも重要ではないでしょうか。

 

宗像神社、住吉神社、八幡神社の相互関係などとともに、なぜ8世紀に突然宇佐八幡宮が登場したり、応神天皇を神霊として武人が八幡宮を祭るようになったか、古代史に興味を持つ高齢者の一人として、関心を引きつけます。

 

この件はこの程度で終わりとします。