たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

言行一致の美 <今週の本棚 藻谷浩介・評 『最強の地域医療』=村上智彦・著>を読んで

2017-07-02 | 医療・介護・後見

170702 言行一致の美 <今週の本棚藻谷浩介・評 『最強の地域医療』=村上智彦・著>を読んで

 

今日の毎日記事で、どうしてもブログで書いておきたかったのがこの見出しの書評です。藻谷氏は時折TVなどでお見かけし、わかりやすい解説と、その内容に結構共感できる方だと思っています。

 

その藻谷氏の書評で取り上げられた村上智彦氏の生き方、著作は、心を打たれました。見出しに「静かに天寿を全うできる社会へ」とありましたが、「天寿」ってなんだろうと思ったのです。人には天寿といった場合いろいろな考えや思いがあると思うのです。

 

ここで指摘されている内容は、私の思いと通じるものがあり、また、理想に近い村上氏の自信の生き方であり、最後ではないかとも思ったのです。

 

村上氏は、<薬剤師からスタートし、志して過疎地の医師となった著者は、やがて孤軍奮闘の限界を知り、岩見沢や旭川を拠点に、「自分を消去しても動く」民間組織を構築し、後進を育てていたからである。過疎地の高齢者に必要なのは「キュア(治療)よりも、ケア(介護・療養)と予防医療」だとの信念から、地域ぐるみで高齢者の生活を支える仕組みを、社会起業家として追求した後半生だった。>

 

なぜ過疎地を選んだか、それはわかりませんが、治療よりケアと予防医療が必要という信念は、場合よっては過疎地だけではないのではと思うのです。

 

その村上氏の実践は著書で具体的に語られているようですが、<著者が終始闘ってきた相手は、「人は(自分も)必ず死ぬ」ということを忘れ、子孫に膨大な借金を残すことを厭(いと)わずに、目先のキュアへの莫大(ばくだい)な公費投入を求め続ける高齢者たちと、その投票によって選ばれ動く自治体関係者、ということになるだろう。>

 

重い病気や突然の死は誰しも恐ろしいと藻谷氏が指摘した後、<前代未聞の長寿社会・日本で、もっと怖いのは、自分だけでは身の回りの用を足せなくなっても十分にケアされず、おざなりの処置を受けることはあっても誰にも必要とされるわけではなく、自分自身の生を失ったまま死を待つことだ。>

 

<自分だけでは身の回りの用を足せなく>なることはいずれやってくる、そのことにどう対応するか、それは常に心しておかないといけないと思うのです。と同時に、そのような事態にならないよう、どう配慮したらよいかについて、できるだけ準備することも大事でしょう。医療なり福祉がどうも現在の状態への対応に追われてて先を読めなくなっているように思うのです。私たちも行政に頼ってばかり、制度に頼ってばかりではすまない状況に来ていることを認識する必要を感じています。

 

藻谷氏は<高齢者医療福祉のシステムを、病気を治すこと中心から、自分の生を全うして死ぬこと中心へと、転換しなければならない。>というのです。それこそが村上氏が自分の寿命を削ってでも成し遂げようとしたものではないでしょうか。

 

西欧流に<「安楽死導入」だとか「延命治療の打ち切り」だとかの極論に走る必要はない。>

 

<地域ぐるみでケアと予防医療の体制を構築することができれば、誰の命も粗末にされない、皆が静かに天寿を全うできる社会は構築できるのだ。>というのです。

 

藻谷氏は村上氏について<自身の死を2か月後に控えながらその影は微塵(みじん)も感じさせず、生への希望、地域の未来への希望を込めて本書を刊行した著者に、心からの敬意と、哀悼の意を表したい。>といかにその死を惜しみつつも、その生き方をたたえているか、私も感動しました。

 

私には無理だと今は思っていますが、できればこういう生き方、死に方をしてみたいと思うのです。


農地制度論その1 <楜澤能生著『農地を守るとはどういうことか』>を読んで

2017-07-02 | 農林業のあり方

170702 農地制度論その1 <楜澤能生著『農地を守るとはどういうことか』>を読んで

 

昨夜はもう雨は大丈夫だろうと思い窓を開けて寝床につきました。真夏に近づいたとはいえ谷底からの冷風で真夜中に目覚めてしまいました。ま、そうでなくても時折目覚めるのはいつものこと。

 

ちょっと薄明かりになったのでその谷底をのぞき込むと、先月初めに植えたときは蚊取り線香のように細かった苗がいまでは田んぼ一杯に緑が充満するほど大きくなっています。ときおり農家の姿を見かけますが、あまり草取りをする必要もないのか、畦の周りをぐるっと回って滞在時間も短い巡回?でしょうか。

 

それでも普通の農家は日々苗や成長する稲の株の様子を虫がついていないか、田んぼに変な虫が出ていないかなど注意をかかしません。でも兼業農家になると週一くらいは見回っても、毎日となるとどうでしょう。兼業の仕事の方が忙しく田んぼの世話ができなくなり、畑になっているところもありますね(畑も作物によっては大変です)。

 

といったことを思いながら、日々の読書時間に、今朝は表記の書籍を手に取りました。日曜日なので、花に水やりをしたり掃除したりした後、ついつい内容に引き込まれ、バックグラウンドにN響を流しながら、ざっとですが全部読んでしまいました。

 

明治以降の日本の農地制度の歴史的な展開を、国富と軍備拡張のために地主に特異な絶対的所有権を付与する一方、小作者の権利を剥奪するという筋立てで、戦前までの法制度を解説しています。ある意味、戦後70年代頃までに確立した見方に近いとらえ方をより簡潔明瞭に断じていると思います。

 

私もそのような理解で農地制度を先達の文献から学んでいたように思います。ただ、最近は近世の農地やムラについての見方をいろいろな文献を通じて少しずつ学ぶうちに、若干、見方が異なってきたかなと思っていますが、基本的なスタンスは楜澤氏とそう大きな違いはない印象を受けました。

 

そういえば楜澤氏とは一度か、二度お会いしています。同氏が編集した『環境問題と自然保護―日本とドイツの比較』の中で、『「契約による自然保護」に関する事例研究』という論文と、『ドイツにおける景観計画と農業計画』という訳文が同氏の手で執筆されていて、それで当時(いつ頃でしょう15年以上前?)楜澤氏とたしか大学院生か学生かと一緒にドイツにおける景観規制とか計画について話をしたことがあります。なかなか有意義な議論でしたが、私の個人的な興味だったこともあり、その会話も記録せず、いつの間にか記憶の彼方になってしまって申し訳ない話です。

 

で、見出しの書籍については、今後も何回か取り上げたいと思いますので、今日はさわり程度にしたいと思います。

 

なお、最初に断っておきたいのですが、わが国で環境法とかというと、国の縦割り行政の影響があるためか、環境省所管の法令と各地の関連する条例がもっぱら対象となっていますが、土地利用はまさに開発と環境保全が対立する最も重要な局面ですので、イギリスをはじめ多くの国で環境法制に組み入れているように思うのです。

 

わが国においてもたとえば生物多様性国家戦略といった場合には、横断的な取り組みがされていて、どの省庁も環境保護事業について縦割り的に発表しています。しかし、みずから所管する法令について、環境保護の規定を組み込みだけで抵抗し、抽象的な規定を入れることはあっても、環境省が環境保全を担当するのであって、自分たちは直接的に配慮する立場にはないという姿勢ではないかと思うのです

 

私はそのような考え方は間違っていると思っています。法科大学院での環境法というのも残念ながら、従来の縦割り行政を脱しておらないと残念に思っています。で、楜澤氏の上記著作は、「持続可能社会への大転換と農地制度」という見出しで、近時の農地制度のあり方について、自然保護のために必要との位置づけで論じています。このような視点こそ、環境法の意義を高め、また、農地制度というものの本質論に近づくのではないかと期待しています。

 

しかし、楜澤氏が批判的に言及する、近時の農地政策、ひいては平成の大改革とも称された農地法、農業委員会法の大改正?についての批判など、私自身、農村に住み、農家とともに水利組合のメンバーとして、またムラ社会のメンバーとして、さまざまな活動をしていく中で、垣間見た現状からは、制度論としては一つのあり方とは思いながらも、実態に適合しない可能性を痛感しています。むろん農地もいろいろ、農家もいろいろ、49都道府県、1700余の市町村でも大きく違いますので、私も断片的な見方をしているおそれが十分にあります。

 

東日本、とくに東北・北海道の平坦で大規模区画をもつ農家が割合多い地域と、斜面地が多く零細分散錯圃が中心の西日本では当然、考え方も農地のあり方も違うでしょう。私は当地にやってきてその実情を知り、その零細さ、分散錯圃の異様さにとても驚いています。

 

この零細分散錯圃の土地利用の現状をしっかり理解して、制度論を議論しないと、絵に描いた餅になります。たとえば、楜澤氏は80年制定の農用地利用増進法やその発展形の93年農業経営基盤強強化促進法などによる農地利用の促進策について、前者は本来のムラという共同体管理の方向性があった点を評価し、後者は認定農業者への農地の集積になったことしています。いずれにしても、農地利用権の設定は顔の見えるムラで認められ、ムラの構成員の多くから指示されることが重要であるといった理解に見えます。

 

そのような理解自体はある種理想的なものとして評価できます。しかし、はたしていまの農村に、江戸時代に自立性をもった共同体のムラの実態があるでしょうか。水利組合一つとっても、そのような共同体意識を認めることができる実態はどんどん薄らいでいる、そして消滅寸前かもしれません。用水管理も次第に機械化される一方、田んぼを作っている人がどんどん減っていって、水利組合員とは名目で、実際に稲田をもっている人はほんの一部という状態も少なくないと思います。

 

しかも一町歩とかの大きな田をまとめて耕作するような場所は限られ、多くは1,2反とか、何畝、なかにはほんの1畝とかもあります。ではそれを全部自分の家族でやっているかというと、たとえば近畿圏では近世から請負耕作とかが相当普及していたのです。家族農業とはいえないのです。小作とも違います。

 

そして以前ムラ社会を成り立たせていた寄り合いというものは、性差を意識させるものであり、その意味で従来のムラ社会を成り立たせていた共同体を単純に復活させることでは、いま求められている持続可能な農業を担う新たな百姓を受け入れることはできないと思うのです。

 

また、いま20年オリンピックを前に禁煙社会の推進がうたわれていますが、農村社会では喫煙が当たり前です。それにゴミゼロ社会というのは農村社会では昔は当たり前でしたが、残念ながら、生ゴミ収集の集積場は毎回袋で満杯です。とても持続可能な農村の構成メンバーになっているといえるか疑問を抱かざるを得ないのです。

 

むろん農薬・肥料などの使用を環境保全の観点から定めたGAPなどは、ムラ社会の中ではたいていが守っていると思います。しかし、普通の農家に、環境保全の担い手としての意識が育っているかというと、生産性や経済性の追求についてはしっかりした考えを持つ人は少なくないと思いますが、前者の感覚・意識となると心許ないというのが身近に接した感覚です。

 

楜澤氏は農地取引の厳格な規制をしている農地法が環境保全に役立つ機能をもってきたかの見解をのべています。そして、スイスやオーストリア、ドイツの法制度を引用しながら、西欧においても農地の取引規制があり、わが国の農地の取引規制が異質なものではないといった指摘をされていたかと思います。私自身、農地の取引規制が一定の農地保全の役割を果たしてきたことは認めます。しかし、他方で、無秩序な開発を許してきたのはまさに農地法や農振法の運用実態ではなかったでしょうか。その意味で、その権限行使を担う農業委員会のあり方が問題とされてきました。

 

楜澤氏は農業委員会について、今回の改正で、農家による選挙制から任命制に変わった点や、耕作放棄地対策について実効的な措置を講じたことなどを評価していたかと思います。

 

しかし、そもそも農業委員会の構成メンバーを実質、農家だけにすることの合理性は、現在の土地利用において失っていると思います。農地がすでに環境保全の機能を担っている以上、多様な職業の参加者が必要でしょう。専門家だけにその意見を代表させるのは疑問です。

 

また、農家と言われている人は、相続制度などで、たまたま何代にもわたって承継しているのでしょうが、もしその人が耕作していないのであれば、本来、農家として適格性があるのでしょうか。いま農家でない人も、先祖をたどれば農家だったでしょう。戦前でも職業の大半は農家ですし、江戸時代に至ればその比率は大変なものでしょう。そして農地を望ましい方法で維持管理して生産に役立てることを担う人であれば、既存農家に頼ったり、既存のムラ社会の意思に農地利用のあり方を任せるのは適当ではないと思うのです。

 

EUの農業環境政策は、20年以上前に少し勉強していましたが、どんどん進展しているので、フォローできていないのはもちろんです。ただ、楜澤氏が西欧の農地制度を援用するのであれば、EUの生態系保全に資する農業環境政策に匹敵する制度がないわが国において、どのようにして農地の環境保全が成し遂げることができるのか、私は疑問を感じます。

 

かなり荒っぽい取り上げ方で、とりとめのない議論をしてしまいました。楜澤氏がこのブログを見たら驚愕するかもしれませんが、わずか1時間あまりで書き上げたものですので、次回の少し整理して、一つずつ、丁寧に議論して、なるべくおしかりをうけないよう、配慮してみたいと思います。

 

ちょっとほかに気になる記事もあったので、今日はこの辺で終わりとします。