たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

看取りを考える <どう変わる医療と介護 ・・特養でみとり、広がる>を読みながら

2017-07-12 | 人の生と死、生き方

170712 看取りを考える <どう変わる医療と介護 ・・特養でみとり、広がる>を読みながら

 

昨日のブログでわが家では扇風機も必要ないほど、いい涼風で快適ですみたいな話をしましたが、昨夜はわが家も熱帯夜がやってきました。30度近かったように思います。これはたまらない、ということで扇風機を出してきたのはいいのですが、電源コードが見つかりません。リモコンはあるのですが、電流が流れてこないのではリモコンも意味がないですね。結局、扇風機なしで一夜を過ごしました。ま、熱帯林調査の時のうだるような暑さに比べればなんてことはないと、熱帯地域を旅していると思えば楽勝です(負け惜しみですが)。

 

とはいえ、熱帯地方(都会ではなく)の夜はだいたい涼しい、時には寒いほどですから、熱帯夜というのはわが国特有のもの?ではないかと思ったりしています。で、そのコードは朝になって探してみると、荷物入れの中に隠れていました。無視されて出てこなかった?んでしょうね。これからは少しは使ってやろうと思っています。でもエアコンははたして使うチャンスがあるかですね。エネルギー消費・電力消費を考えると、私のやせ我慢も多少は支持されるものではないかと勝手に思っています。

 

今日も特別の仕事をしたわけではないのに、いつの間にか5時半を過ぎていて、やっと今日のブログはなにを話題にしようかと考える時間となりました。新聞をぱらぱらとめぐっていて、「看取り」という言葉に着目しました。

 

私自身、なんどかこのブログでも触れたと思いますが、横須賀にいるとき、「やすらぎの会」という小さな団体の顧問となって、この活動の進展に関与していたのですが、あるときから終末期を自宅で看取られることを進めていこうという運動に変わり、医師、看護師、患者、ま、私は弁護士の立場で、関与していました。医師はすでに実際に家庭での看取りを行っている人が参加し、次第に充実した活動になっていきました。といっても私自身は一度もその看取りの現場に立ち会ったことがないので、経験がないというのはやはり物足りませんね。医師も看護師も、患者も、終末期の患者、あるいはすでに亡くした家族をもつ人がいて、それぞれの思いに触れることができました。

 

むろん私も高齢者の一人ですから、父の死を含めさまざまな死に直面してきましたので、看取りの経験がないというわけでもないのですが、実際に世話したり、看病や介護したりすることはありませんでした。

 

では「看取り」とは何かですが、大辞林では「病人のそばにいて世話をすること。また、死期まで見守り看病すること。看護。」と定義づけています。

 

上記の定義の中で、後者の「死期まで見守り看病すること。」が近いのでしょうか、でも少し違うように感じています。死期までというと、死亡の判断は医師がするものとして、死ぬ直前、死んだ瞬間、死んだ後は、看取りから外れてしまうのかと、変な注文をつけそうになります。たしかに死んだ後は葬送儀礼の世界に入って看取りではないのでしょうね。

 

ただ、たびたび援用する毎日新聞連載中の浅田次郎著「おもかげ」では、身寄りのない老人を看護師が世話をして、ベッドから霊安室に運び、最後の別れをする場面を描写していますが、筆者は心ある看護師を通して、看護の仕事を離れた看取りという思いを表現しています。誰も見ていない、筆者と読者だけが知る、身寄りのない老人への手向けが淡々とした描写ながらすてきに表されています。

 

そんな看護師いるのかしら、忙しい、たくさんの死者を送るのでマンネリになっているのが現実ではないかといった批判的な見方もあるかもしれません。でもそういう看護師さんがいることを願い、また、いると想定してもいいと思うのです。

 

では再び看取りとは何でしょうか。毎日記事<どう変わる医療と介護2018年度 同時報酬改定 特養でみとり、広がる 医師の協力必須では、<介護施設に入所していても、最期は病院に運ばれて亡くなるケースは少なくないが、本人や家族の希望にそって「生活の場」である特別養護老人ホームでみとる例が広がっている。ただ、ほとんどの特養には常勤の医師はおらず、ニーズに応じた体制の充実が求められている。>と介護施設での看取りが入所者の希望に添うものとだが、医師不足のため、ニーズに応じきれない実情を取り上げています。

 

看取りになぜ医師が必要かですね。毎日記事は<みとりに欠かせないのが、入所者家族との意思疎通や医師との連携だ。相談員の高山美幸さんは「食事の量が減り始めたとか、起きている時間が少なくなったとか亡くなるまでには体調の変化がある。状況をみて家族に医師と面談してもらい、施設でみとるか病院でみとるかを選んでもらう。施設でみとる場合は、看護師や介護士などでチームを組む」と話す。>なぜ医師が必要かは、当然のこととしてとくに言及されていません。

 

毎日記事が取り上げている厚労省の対応もそうです。先般、私のブログで取り上げた地域医療の死を賭してまで頑張り続けた医師も同じようなスタンスにも見えますが、上記の介護施設のメンバーや厚労省の立場とは違っていたように思うのです。

 

介護施設に入所していても、死期が近づいたら、当然のように医師を必要とする、病院でなければ対応できないとの考え方でしょうか。むろん介護施設のスタッフや入所者の心は最後まで施設で過ごして、看取ってもらいたいという思いを相互が共通に意識しているように思えるのです。

 

むろん医療的措置が必要な入所者もいるでしょう。しかし、すべての人が治療中心の医療措置を必要と意識しているか、私には疑問に思えるのです。看取って欲しいとは思っていても、現代医療の最先端の技術を利用して、少しでも延命させることを求めているかというと、そういう人はどのくらいいるのでしょう。いや、家族は違うというかもしれません。私は、そういう選択もその人の意思にゆだねてもいい社会になっているのではと思っています。

 

安楽死と尊厳死といった違法・合法の厳格な基準について、医師はしっかりした判断基準を持っているので、その判断をまって対応することはもちろん、さまざまな病気への対応も医師を必要とするでしょう。

 

ちょっと別の見方をしてみたいと思います。ウェブ情報で<【保存版】看取りの基本知識と看取り場所の今と昔>というのがありました。

 

興味深いのは<2015年現在、日本では、病室での看取り率が80%を越えているといわれています。世界的に見ても、病室での看取り率が80%以上というのは、類を見ないほど高いようです。

なぜこのように病室での看取り率が高くなったのかは、私の主観ですが、次の3つにあるのではと思います。

1.           世界有数の医療技術

2.           医師への信頼度の高さ

3.           国民の経済的な豊かさ>

 

そうかなと思いつつも、ま、ともかく病院で看取られるのが当たり前となったのは、それほど古い昔ではありませんし、世界的には異例なことなんですね。

 

そして注目すべきは<一方、看取られる人の要望は、圧倒的に病室より自宅が多く、71.7%の人が自宅で看取られることを望んでいます。>それは10年以上前によこすかで活動しているときも、ひしひしと感じました。

 

ここで、<在宅看取りには、本人希望と家族希望を確認後、本人が終末期であることを医師が診断することが必須です。また家族だけの世話や介護では困難なので、往診していただける医師、訪問看護師、さらに介護も考慮するとケアマネージャーなどの介護者とも連絡を密にしておく必要があります。>となっています。これも当然のこととして、どういう根拠なのかは書かれていません。

 

最後に「看取り士」という資格者まで登場するのには驚きますが、ま、わが国ではとりわけ人の死に対する礼を大切にするように思いますので、必要性があれば、そういう人も望まれるかもしれません。

 

そろそろ1時間になりますので、終わりにしたいと思いますが、さすがマニュアル作りが上手な三菱総研の報告が2件あり、参考にタイトルだけ援用します。ざっとしか見ていませんが、看取りのあり方を考える参考になるかと思います。

 

0703 特別養護老人ホームにおける看取り介護ガイドライン

1103 特別養護老人ホーム利用者の看取り介護ハンドブック

 

で、私は、看取りとは、看取られる人の意思と言うより、世話をする側の礼のあり方かなと思っています。むろんアンケートなどで自宅で看取られたいという希望が多いわけですから、看取られる側の意思は基本にあるのでしょう。でも、その意思は自宅か、病院かといった場所程度の話で、実際の看取りのあり方となると、これは看取る側の意識・対応によらざるをえないのではないかと思ったりしています。

 

そして私は看取られたいという気持ちは、いまのところありません。むろん、自宅か病院といった場所も問題になりません。看取りという、礼のあり方より、なにかより重要なものを追い求めていきたい気持ちがあるのでしょう。

 

わかったような、わからないような文脈ですが、今日のところはここでおしまいです。