たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

家族を考える <働かぬ父、支える必要あるか=回答者・高橋源一郎>を読んで

2017-07-03 | 家族・親子

170703 家族を考える <働かぬ父、支える必要あるか=回答者・高橋源一郎>を読んで

 

森林・林業の話題が、裁判例を読んでいるうちに、1時間半以上になってしまい、上記にテーマを書く予定にしていたのを一旦断念したのですが、やはり書いておこうかと思い直し、再び筆ではなく、タイピングを始めました。

 

回答者の高橋源一郎氏は、その回答が一見、悩みそうにも思う内容でも、大胆に、かつ、明快に、しかも自らの体験を踏まえており、爽快さを感じさせてくれ、その回答内容はいつも楽しみにしています。私も同類に近いかもしれないと内心では思いつつ。むろん高橋氏のような才のかけらもありませんが。

 

さて、今日の質問は<私の父は64歳で、50代で働くことをやめました。貯金もありません。今は母と姉と私で家計を支えていますが、それを当たり前に受け取り、感謝の気持ちもなく、懸命に働く母へ暴言。それを指摘すると逆ギレします。この環境を変えようと模索しますが、いい答えが出ません。私の家計も正直苦しいです。育ててくれた親だからと割り切って、父の支援をしていかなければならないのでしょうか。(25歳・女性)>というものです。

 

最近、私自身、最近、同種事件の親から依頼を受けて、20才の子に扶養料請求をしようとしたことがあり、一旦引き受けたものの、事実調査をして、これは無理筋と思い受任しないことで了解してもらったことがあります。

 

さて高橋氏は、どう答えたでしょう。彼はまず自分の家族の体験談を持ち出します。いつも自分の経験を基礎にしていて、どこかの文献資料やおえらい先生の書物を持ち出すことはありません。

 

彼の実体験はいつも切実で、そのときは血走るほどに激情的だったかもしれません。その内容はウェブ情報で確認ください。

 

そして高橋氏はのたまうのです。<家族は永遠に続くものでも、何があっても守られるべきものでもないと思います。それに参加する者が、互いに誠実であるときだけ持続できるものです。そうでなければ、家族もまた存立の意味を失います。そのときには、家族の誰かが、解散を告げるべきなのかもしれません。

 そもそも成人すれば、親から離れるのが当然であることを前提とした上で、なお、現在の、相談者の家族は解散した方がいいように思います。>

 

そうなんです。家族は血縁のつながりと言っても、絶対のものではありません。DNAも関係ないでしょう。それは普段の努力で(意識するしないはともかく)結びつくこともできれば、離れることもできると思うのです。生まれたときは自由意志ではないとしても、その後は解散もありうると思うのです。

 

家族を維持することに苦しみと楽しみを分かち合いながら、続けるかどうかは、そのあり方の多様性もふくめ、それぞれの家族が決めていくことだと思うのです。だれかが、社会が、国行政が、こうだと決めつけるものではないと思うのです。

 

高橋氏は、一刀両断的な回答に見える一面、そこには多様な含みを、柔軟さを兼ね備えているように思えるのです。それは言葉に表れない、行間に示されるような彼の優しい重いでしょうか。

 

今日は、ほんとにこれでおしまいです。

 

 


森林・林業論その1 <野口俊邦著『森林・林業はよみがえるか』>を読みながら

2017-07-03 | 農林業のあり方

170703 森林・林業論その1 <野口俊邦著『森林・林業はよみがえるか』>を読みながら

 

今朝というか最近、まだ暗いうちから野鳥の鳴き声が結構喧しいのです。はじめはスズメかなと思ってみましたが、こんなに暗いのに活発に鳴くのはどうかと思い直しました。どうやら幼鳥のようです。ちっちっちっといった短く繰り返すのです。これ餌をねだっているんだな。それもわが家のそばで。

 

早暁の明るさの中、外に目をやると、庭のフェンスのてっぺんとか、庭木に成鳥のホオジロのつがいが行き来しています。尾羽を盛んに振るわせています。交尾のためなんかとおもいつつ、近くで幼鳥が庭を小さくはねたりしています。幼鳥は2羽くらいで親子4羽が楽しんでいるのかなと勝手な想像です。

 

それが日が昇りかなり時間が経過しても、その調子でわが家や隣家の周りを飛び回っています。斜面下の葉桜の木に移ってみたりしているのですが、私が花に水やりをしているときなど、わずか数mくらいのところで騒いでいるのです。こんなに間近にホオジロを見るのは初めてです。するとメジロまで近づいてきました。なかなかいい感じですが、メジロの方は間違った相手と思ったのかすぐ飛び立っていきました。

 

そして眼下の葉桜の木の間には、恰幅のいい猫が狙い澄ましたかのようにじっとたたずんでいます。上空ではさっと横切る大きな鳥がいました。トビかなと思ったのですが、この分譲地周辺ではあまり見かけないので、きっとカラスでしょう。すぐにそばのヒノキの枝にとまりました。

 

そんなのどかな朝を送りながら、今日も暑くなるなと出かけました。そしていろいろと作業をしていると、もう5時を回っています。

 

今日のテーマ、昨日の農地問題の続きもいいのですが、これはもう少し整理してから取り上げたいと思います。今朝の一時間の読書を楽しんだ、見出しの本にします。これで二度目ですが、おおよそざっと読んでいて、 「緑のオーナー制度」をめぐる詐欺的勧誘法として国家賠償責任が問われた事件の裁判例を少し参考にしつつ、言及してみたいと思います。

 

私もこの緑のオーナー制度の裁判はニュースでちょっと記憶していますが、分収育林制度で相当の利益が上げられると考えること自体どうかと思いつつ、利益度外視で国有林の保護のため支援する気持ちで購入するのならわかなくもないと感じていました。棚田のオーナー制度みたいなイメージですね。

 

著者の野口氏は、信州大学名誉教授で、林業や国有林のあり方を長年研究されていて、本書で、戦後における国有林野事業の展開、そしてその解体の歴史を簡潔にフォローしています。

 

日弁連の公害環境委員会も、長年、素人ながら国有林問題を調査し、シンポジウムで意見書を発表したり、『森林の明日を考える』有斐閣を出版して、その問題を指摘してきました。野口氏とは観点が異なりますが、その事業のあり方には収益事業としてだけでなく、(その収益性に重点を置きすぎ)環境破壊を招く事業施行を行うなど多くの問題を抱えていました。四半世紀以上前に執筆していますので、現代的な意味は薄れてきましたが、それでも自然享有権をうたい、西欧社会に根付く自然権的なものと通底するものだったのでしょうか、多くの支持を受けてきたと思います。

 

国有林事業の問題点は、別の機会にまた言及してみたいと思いますが、ここでは「緑のオーナー制度」について、簡単に触れてみたいと思います。

 

野口氏は<国有林の「緑のオーナー制度」とは、国有林野事業が財政危機を深める中で、スギやヒノキなどを植林して一五~二五年たった「間伐林」(若齢林)を、いわば「投資物件」として国民に売り出し、二〇~三〇年後に伐採した木材収入を費用負担者(国民)と国が分け合おうとするものである(これを分収育林制度という)。>と定義づけています。

 

そしてその事業経過は<主として都市住民などの「余剰資金」を引き出すために一九八四年度に創設されたこの「緑のオーナー制度」は、一口五〇万円(一部二五万円)で費用負担者を募ったものの、大きくこれを下回る還元金しか受け取れないという「元本割れ」が現実化する中で、一九九九年、突然資金集め(費用負担)の募集を停止し、実質上本制度を廃止した。>と指摘しています。

 

で裁判は、<「緑のオーナー制度」で費用負担者となった人々は全国で延べ八万六〇〇〇人、総額五〇〇億円にも上る。費用負担者のうち二三九人は、「国に編された」「元本割れとは考えてもいなかった」と憤り、二〇〇九年、国を相手取って集団訴訟(大阪地方裁判所)を行ったのである。> 

 

そしてこの裁判について、野口氏は原告弁護団から依頼を受けて原告に有利な意見を提出しています。野口氏はこの制度が当初から破綻することが明らかであったことを、この制度を諮問した林政審議会等の議論が科学的な裏付けを欠くもので、まっとうな議論さえしていないことを指摘しています。

 

そして裁判では、一審大阪地裁が平成26109日の判決で、<国及び費用負担者が契約期間満了時に成長した樹木を公売するなどして得た収益を分収するという分収育林制度において、分収育林契約を締結した費用負担者が国の担当者から説明を受ければ当該契約を締結することはなかったことを理由に、除斥期間の経過等による分を除き、国は費用負担者に対し説明義務違反による賠償責任を負う>として、野口氏いわく「きわめて限定的」な限度で損害賠償責任を認めています。

 

二審大阪高裁は平成28229日判決では、ほぼ一審判決を維持したうえ、平成571日以降は、「元本の保証がない旨の記載されたパンフレットが使用された」(それ以前はそのような記載がない)などとして、説明義務違反を認めない判断をしています。

 

原告側のみ上告しましたが、最高裁は同年1018日上告棄却して、事件は終結しています。

 

しかし、野口氏が指摘していますが、当初より破綻していることが明らかな緑のオーナー制度について、各地の営林署は、まるで夢を語るがごとき宣伝文句で、おおくの良心的な人たちから資金を集めていたのです。

 

たとえば、<「思い出を、伸びる木とともにつくりましょう」、「長期契約の安全確実な資産としてお子さん、お孫さんへのプレゼントに日」、「結婚記念・誕生日の記念にあなたも一口参加されませんか」>など多種多様な美辞麗句です。

 

営林署の人たちも困ったでしょう。彼らは林業の実態を知っているわけですから、国有林事業の赤字垂れ流しの状態で、将来利益を生むような事業は到底予想できなかったでしょう。それを本庁からの指示でしょうか、あるいは本庁で作られた販売促進用の表現をパンフレットなどに刷り込まざるを得なかったのかもしれません。

 

しかし、野口氏が指摘するように、ほんとに多くの人が金儲けというか、元利保証を目当てに資金を拠出したのでしょうか。先に指摘したように費用負担者数は全国で延べ86000人、他方で原告になったのは239人です。その比率は2.8%です。むろん国を相手に国賠訴訟を提起するにはとても勇気がいります。また、損害額が収益を控除するとそれほどでもない場合、あえて賠償請求までと考えた人もいたでしょう。

 

それだけではないように思うのです。この比率が示すのは、当時森林の荒廃が問題にされていましたし、赤字経営が取りざたされていましたので、森を守るために支援しようと思った人が相当あったのではないかと思うのは間違いでしょうか。

 

森の保全とは違いますが、東日本大震災の後、細川護熙氏などが進めている「鎮守の森のプロジェクト」は多くの賛同・支援を受けて、持続的に植林活動を続けています。私も一人の支援者として参加しています。自ら作業できる人は労働力を、わずかでも支援できる人は資金を、それぞれができる範囲で、自然の海岸を保全しながら、災害対応となる森を育てようというプロジェクトは、全国各地から支援の輪が広がっているように思います。

 

当時の国有林のことを少しでも理解していたら、そういった気持ちで資金提供した人も少なくなかったと思うのです。できればそのようなきちんとした説明と事業内容であったなら、より参加者の希望を叶えたものであったのではないかと思うのです。

 

イギリスのナショナルトラストの会員の人と一緒に、そのトラスト地をなんどか訪れたことがありますが、会員になることは彼らの誇りですし、トラスト地を訪れることも心豊かな気持ちにさせてくれるようです。わが国のナショナルトラスト制度の認知度の低さはいろいろな原因があるかと思いますが、棚田のオーナー制度をはじめ、やり方次第で、事業はうまく展開するように思うのですが、それは甘い考えでしょうか。

 

今日はこの辺で終わりとします。