たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

畑と畠の穀物 <森浩一著『日本の深層文化』中「粟と禾」>を読みながら

2017-07-09 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170709 畑と畠の穀物 <森浩一著『日本の深層文化』中「粟と禾」>を読みながら

 

今朝も寝床の中で少し読書を楽しみました。毎日その日の気分で書籍を選ぶので、同じ本の場合もありますが、だいたい違っています。寝床で読むので、あまり凝らないようにしているからかもしれません。いや、持続力がないのかもしれません。

 

ともかくここ何日かは見出しの本を読んでいます。森氏の書籍は、どのくらい読んだでしょうか。読んだというかつまみ食いでなく、興味を持ったところだけ読むというくらいで何十冊かは読んでと思います。とても幅広く中身も濃いので、きちんと全部読むだけの力量がないため、通読となるとほんのわずかです。でも、考古学というか人間味溢れる森氏の著作は惹かれています。残念ながら森氏の存在を知り一度は講演を拝聴したいなと思っていたら、他界されました。

 

で、いま時折読んでいる見出しの本、まじめな探求者による深い洞察の一端を知ることができます。で、見出しの「粟と禾」といった現代日本人があまりぴんとこないテーマから始まり、「野」や「鹿」「猪」「鯨」を取り上げています。

 

で、今回は最初の「粟と禾」をテーマにします。森氏いわく、この文字を読めましたかという、ユーモアも含めて、私も提案したい質問です。最初の文字が「あわ」というのはわかるとおもいますが、どういうものかイメージできる人は少ないでしょう。粟おこしを食べたことがあればむろん加工したものとしてわかるでしょう。でも粟そのものを知っているかと聞かれると、現代ではほとんどの人が見たことがないように思います。

 

森氏は、さらに「粟田」という言葉に注目します。稲田と対比されるような言葉でしょうか。水田のことを稲田と表現されることはあっても、米田とは呼ばれることはないですね。米は稲が田んぼで実って収穫され脱穀された後食べれる穀物として稲の実ともいうべき意味づけで呼ばれるわけですね。

 

では先の言葉の「禾」はなんと呼ばれるのでしょうか。森氏は著名な学者がこれを「イネ」と呼ぶことに不満を述べています。日本は稲作文化の国という凝り固まった考えからでてきたものと指摘するのです。たしかに辞書には「イネ」という表記もありますが、「アワ」が正解だというのです。では同じ「アワ」なのになぜ漢字が違うのかですね。禾は田で作られているときの植物の名前、それが育って収穫された実が粟となるというのです。

 

で、森氏の突っ込みはここからどんどん深化するのです。稲田は水田にできるのだから、その表現はいいとしても、なぜ粟田なのかです。粟は畠にできるものですね。

 

で、こんどはハタケという言葉を追求するのです。記紀の成立する前は、「陸田」といったとして書紀の神話第5段の第111)を引用しています。これはハタケと発音されていたというのです。

 

森氏は、万葉集も取り上げます。彼は考古学者ですので、考古学的考察はきわめて緻密ですが、それだけにとどまらず記紀を含めたあらゆる歴史書を読み込んでいると思う節があるのです。万葉集などは基本書なのでしょう。

 

大伴家持が749年に百姓のため、雨の降ることを願って作ったと記されている歌(18-4122)の一節「宇恵之田毛 麻𠮷之波多気毛」を引用して、「植えし田も 蒔きしハタケも」とみてよかろうというのです。

 

ただ、これだと田んぼは「田」なのに、ハタケは「波多気」と漢字を別に扱っているともいますね。ハタケという言葉に対応する倭語が成立するのが遅かった?のか、記録上は千葉県の吉原三王遺跡から出土した8世紀後半の「吉原大畠」などのようです。この場合ハタケは畠という文字が使われていたということですか。

 

ではもう一つの「畑」はというと、それより遅れて、飛騨や信濃の焼き畑地帯で必要から生まれたのであろうと、推測を述べています。ということは古い史料がないようなのです。私なんかは、「畑」こそハタケかな、なんて思っていたのですが。

 

で、そのことはさておき、森氏は、「粟田」という地名をとりあげます。粟田は古くからの京都の地名であるというのです。平安時代の百科辞書、『和名類聚抄』には「上粟田郷」と「下粟田郷」が記載されていて、両者併せての粟田郷は、鴨川の東、東山三十六三峰中央部一帯に近い広大な面積だったようです。北は北白川も含んでいたようですから、私が居住していた場所も粟田郷だったかもしれません。

 

粟田と言えば、粟田口という、東海道などの終着点であり出発点でもある重要な場所として有名ですね。京都でも有数の高級ホテルが並んでいますね。この粟田という場所は、あの坂上田村麻呂征夷大将軍が亡くなった場所でもあるとの薨伝があるそうです。それから粟田氏という名前の著名な人が次々と取り上げられていますが、ま、これは参考ですね。

 

で、ちょっと森氏の探求から離れて、別の観点から「粟田」について私の文字イメージなどを書いて見ようかと思うのです。

 

さて「粟」という文字を分解すると、冠の部首・「西」という文字の旧字(真ん中の縦棒が直線2本)と脚の部首・「木」で成り立っています。この旧字を使っている文字を探ってみると、「栗」「票」「要」「覆」「覇」という文字がでてきました。他方で、この旧字単独では現在使われていません(そのため個人名で旧字があったりすると、相続手続きなどで要注意です)。

 

このうち、粟と栗に注目してみたいと思います。粟は「米」が脚の部首で、栗は「木」です。この旧字の西には特段の意味がないのかもしれないのですが、栗は縄文時代からの主食の一部であり、粟もおそらく縄文後期にはそういう位置にあったではないかと思います。アワは「阿波」とも表記されていたようですから、倭語の漢字を適用するとき、なにか共通性を見いだしたのでしょうか。

 

注目したいのは、粟の脚部が「米」となっている点です。米と同等に近い評価を受けていたのではないかと、その言葉から感じています。「田」でない点は気になりますが、「粟田」という単語で表していたのかなと思っています。他方で、栗は、まさに脚部の「木」からなる実ですね。それも重要な主食として重宝されていたのですね。

 

ここで森氏の「栗野と栗栖」という項目で書かれている部分を少し援用したいと思います。

 

「クリ(栗)は、古代人にとってその実(子)は貴重な食料になるし、材は柱や板として重要な建築材になり、価値の高い有用植物だった。縄文時代から人びとはその育成に手を貸していた。栽培にたいして、植栽していたといってよかろう。」というのです。

 

そして材を作るために植栽されている栗林と、クリの実の収穫を主な目的として植栽する場所として栗栖(あるいは栗栖野)があったというのです。さきの粟田郷に隣接して栗野郷があったとのこと。

 

縄文時代の陸上の食料として栗は最も普及していたのでしょうが、弥生時代以降はその座を粟が取って代わったのではないかと思っています。

 

森氏は、江戸時代の農学者である宮崎安貞の『農業全書』には粟について、「一段に夫婦年中の食物ほどあるものなり」と述べているとして、「一段(991㎡)を植えると、夫婦二人の一年分の食料になるという」と指摘しています。

 

私が関心を寄せる、江戸時代の天才的な農業土木技術者で一百姓を貫いた大畑才蔵は、米は作りますが、年貢に出すものとして位置づけ、正月とか特別の日以外は食べず、粟・黍など多様な穀類その他作物の耕作方法について丁寧に日記に残し、後継者の道しるべにしています。

 

それは、百姓だけだったかというと、そうとも限らないと思っています。森氏の指摘では、「新嘗と新粟嘗」の項で、「新嘗祭」といいうと、米の豊作を祝うことが今では当然のように思われていることを踏まえて、「とくに神事にからんでの穀物は粟だったし、何よりも「ニイナメ」に「新粟嘗」とわざわざ粟の字を挿入していることに注意すべきである。」と指摘しています。『常陸風土記』にそのような記載があるのですね。

 

そして森氏は、記紀の神話でも、稲に加えて粟がいずれもでてくることを指摘しています。私もそうだそうだと思う次第です。

 

で、森氏は稲作を中心とするわが国の文化についての考え方を見直そうとしているように思えるのです。私も同感なのです。むろん、米は好きですし、水田の重要性を多様な意味で強調する立場でもあります。しかし、米食はどんどん減っている現状をどう考えるかといったとき、日本人は元々雑食だったのではないかと思ってしまうのです。そば、小麦、大麦(記紀にもでてきます)など、なんでも食することができる柔軟性のある国民ではないかと。だから、外国に行ってもあまり食に困らない?(私の場合先住民の食べ物は残念ながら苦手ですが)のではと勝手な推測まで働きます。

 

現在見直されているのは五穀米とか十穀米とか、古代米とか米といっても多様です。ましてや多様な食材に適応できるDNAを古代から受け継いできているようにも思うのです。

 

そろそろ饒舌になり、話の骨子がわからなくなってきましたが、もう一つ付け加えたいと思います。「田」と「畑」(なお畑毛や畑ケの表記もありますね)、「畠」の意味合いです。

 

田は水田を意味しなかった、稲田をのみ示すものではなかったという点は、森氏の話でもおおよそ理解できたかなと思うのです。では畠と畑はどうしてできあがった言葉かなともう一つ疑問に思ってしまいます。陸田であるハタケも、田のいう点では共通しますが、水田と区別する必要ができ、畠なり畑という漢字が当てられたのかなと思うのです。その場合焼き畑耕作は縄文後期には長野などで行われていたとも言われており、火を使う耕作という意味合いで、部首の偏に「火」を当てたのかなと思うのです。でもなぜ、「畠」という部首の冠に「自」を当てたものが歴史資料としては先に出てきたのか、これも不思議です。

 

そこの謎解きは今後に楽しみに残しておいて、「畠」という言葉自体、現在ハタケという農地としてはほとんど使われておらず、「畑」になっていますね。実際、焼き畑耕作は日本全国で相当広範囲に行われていて、伝統的農法としては合理的でそれなりの生産性の高い農法であったと思うのです。戦後初期ころまで東京の奥地では行われていたようです。火を入れるということは百姓にとって自然なことだったのかもしれません。

 

で、「畠」の「自」という文字も、自然に作るといった意味合いがあったのかどうか、それこそ妄想のたぐいです。

 

そろそろ時間となりました。今日はこの辺で終わりとします。