外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

立教が苦しんだ時代

2010-07-16 17:53:05 | 大学野球
各地で猛威を振るっている集中豪雨。
皆様のご自宅やご家族は大丈夫でしたでしょうか。

今春、中部電力に就職した丹羽力人くんは、出身の岐阜県内の営業所に勤務しています。
担当地域内では、落雷の被害が多発して、その対応に丹羽くんも多忙を極めているとのことです。

地元住民の皆さんのために、がんばれ丹羽くん!

さて先日、青山高校の仲間が集まった時、隣に座った鬼の女子マネ・Iさん(立教OG)が、「私たちの時の立教の野球部は、本当に苦しんたのよ」と。

彼女は指定校推薦で立教に進学したので、大学では私より1学年上。
したがって、モロに江川を擁する法政の黄金時代と重なりました。
加えて、東大に赤門旋風が巻き起こったため、立教は最下位転落まで経験した時代でした。
Iさん在学中の1974年から4年間の立教の成績は、4位-4位-5位-6位-5位-6位-5位-6位。

ちなみに同期間の東大は、6位-6位-6位-5位-6位-5位-4位-5位。
東大がどんどん力を蓄えて、他校の足元をすくう場面が増えていった状況が分かります。
この時代に六大学野球の主役は、もちろん怪物・江川でしたが、東大の躍進もスパイスとして効いていたことを忘れてはいけません。
ちなみに、この時代の観客数は、東大戦も含めた全カードの平均で二万人を超えていました。

1976年当時の立教を振り返ってみました。

冒頭の写真は、菊地監督と猪熊弘毅外野手(延岡高校)。
猪熊はパワフルな打者で、立教打線の中核でした。


この写真は、左から宇治原佳則内野手(尼崎)、吉井郁雄内野手(富岡)、平間正治内野手(松本県ケ丘)
なかなか強力な打線でした。


この写真は、Iさんが「木村クン」と親しみを込めて呼ぶ、木村吉則投手(八戸)。
東北人らしい粘り強い投球が信条の木村投手。
1学年上の高野孝之投手(長岡)からエースの座を受け継いだ彼は、来る日も来る日も投げまくって、チームを支えました。

ちなみに、その木村投手から安蒜(立教高校)、次に野口(米子東)と、エースの責任が引き継がれていきました。
どの投手も、孤軍奮闘というか、観ているファンが息苦しくなるくらい、頑張り抜きました。

なお、この時期には、先崎史雄内野手(1976年度主将)、若尾佳生外野手という、磐城高校出身者が立教にいました。
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8 Comments

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木村投手 (slept5555)
2010-07-16 22:48:31
いや、この人は法政に投げ勝って「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われましたっけね。明立戦でも25,000人位は入っていました。
明治学生席から「木村~ノックアウトだ!」くらいはましですが「どうせ負けるんなら早くひっこめ!!」など明治ならではの品格のないヤジが飛ぶとリーダー部のちょび髭を生やした学生が「みなさん~、私もキムラなんです。あんまり悪く言わないでください」とヤジをなだめていたのを思い出しますね。

ちなみに私の父は立教が戦後20年ぶりに優勝した秋、優勝候補の立教を秋山ー霞元の2枚看板で予想をくつがえして連勝し、早慶戦まちで戦後初の優勝、その明立2回戦の学生席にいました。
3-0で勝ってはいるけれども、強豪の立教相手に最終回まで緊張のしどおし。勝った際には野球部が応援席まで整列してあいさつに来て、島岡監督は男泣き。学生の多くは、まだナイター設備がないので真っ暗な神宮で泣きながら「白雲なびく」の校歌を歌ったようです。こういう六大学を復活させたいですね。
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黙々と (早稲田スポーツファン)
2010-07-17 04:51:29
立教の投手は一人で黙々と投げるという印象があります
横山投手、中村投手が印象に残っています
早稲田は立教に負けて優勝を逃している事が何度かあります
代表的だったのは谷沢主将の時の秋
連敗中の立教に勝点を落とし優勝を逃しました
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この頃 (MT)
2010-07-17 09:03:13
この頃、テレビ神奈川やテレビ埼玉で中継があり立教戦は、村山修一さんがよく解説していました。ちょっとしたゴロをエラーすると、「まったくあのくらい取ってくれよ」と本音でなげいてました。
眼鏡の横手投げの木村投手が、一人気を吐いていましたね。
東大に西山という好投手がいて、立教は二試合連続完封とか食らってました。

東大4位、立教5位、慶應6位というシーズンがありましたね。
この頃は、東大が勝つと新聞沙汰で7時のNHKニュースにも取り上げられました。
その後、慶應は長い低迷時代、早稲田も昭和57年秋の優勝を最後に長い低迷時代。
六大学自体の人気も低下しました。長島一茂で一時的に人気を取り戻したことを見ても、立教を、他山の石とできなかった反省を六大学全体がすべきであったのかもしれません。後講釈ですが。
ハンカチ王子の卒業後が、怖いですね。
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砂押さん (mytochigiotoko)
2010-07-20 10:57:17
立教野球部元監督の砂押さんが亡くなられました。長嶋・杉浦・本屋敷
さんなどを下級生の頃厳しく鍛えた方です。水戸商出身ですから豊田さんも頭が上がらなかった人です。
立教野球部のひとつの象徴でした。
謹んでご冥福を祈ります。
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ありがとうございます (ay1881)
2010-07-20 11:33:36
ボストンからニューヨークへの帰りのアムトラックが2時間近く遅れて、先ほど到着しました。
疲れました。
こちらは午後10時半を過ぎたところで、すぐに寝ます。

私の旅行中、ろくな話題を書くことができずに、申し訳ありません。
それにもかかわらず、コメントをお寄せいただき、心から感謝いたします。

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砂押さん (mytochigiotoko)
2010-07-21 10:22:37
スポーツ新聞、一般紙などはもちろん昨夜はテレ朝のNステで古舘さんが、今朝はみのさんが母校立教の
名監督の死を伝えていました。
週末はやはり立教OBの関口さんと
徳光さんがそれぞれの番組で伝えるでしょう。
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立教が苦しんだ時代 (金井竹重)
2010-07-21 13:06:51
偶然貴殿のブログを拝見しました。
私は立教大学応援団団長として、宇治原主将を中心とした素晴らしい仲間を同期に持ち、応援出来た事が一番の自慢です。
広島商業の甲子園優勝投手の佃選手から、立教はチームワークが良くてうらやましいと神宮球場のトイレで話しかけられた事を思い出しました。
久しぶりに野球部と応援団の同期会を開きたくなりました。
今後も六大学野球の話題を掲載願います。
返信する
金井さま (ay1881)
2010-07-21 13:49:58
金井さま、
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
応援部が大学スポーツ文化の中核を担う、というのが私の持論です。
これからも機会がありましたら、お立ち寄りください。

なお、本年5月23日付けで、早稲田の応援部の記念式典の様子を取り上げていますので、ぜひご覧ください。
金井さんと面識のある方が登場しているかも知れません。
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