テモテへの第二の手紙 2章
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。(2・1)
手紙の受取人であるテモテは大きなストレスを抱えていました。その事情はすでに申し上げたとおりです。胃腸も患っていたようで、先の手紙では、少量のブドウ酒を飲むように勧められるほどでした(第一5・23)。
現代人もストレス社会で重荷を背負っています。文明が進み、便利で快適な社会、社会制度も充実しているにもかかわらず、ストレスが減るどころか、かえって増えるばかりです。
職場ではノルマを課せられ、常に批判と評価の中にさらされています。そんな中で強くあろうとして、最大限の努力を強いられています。まるで「現代版・律法の世界」です。
律法はいつも努力を要求します。ノルマを課し、批判と評価を容赦なく浴びせるのが律法です。地上の世界はまさに律法の世界です。そのような社会の仕組みは、自転車操業みたいなもので、〝努力〟とうペダルをこぐのをやめてしまったら倒れてしまいます。だから、みな追い立てられるようにしてペダルをこぎ続けています。実につらい世界です。
律法に無くて福音にあるもの。それは「恵み」です。努力を軽んじるつもりはありません。ただその努力という「力」が、律法から追い立てられるようにして出ているのか。それとも恵みから出ているのか。それが肝心です。今日の御言は「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧めています(2・1)。律法の世界ではなく、恵みの世界に生きるようにと聖書は命じています。
とはいえ、律法が無くなるわけではありません。キリストは律法を廃止するために来られたのではなく、私たちが恵みの世界に生きることができるようにするために来てくださいました。
律法は無くなったのではなく、私が律法に対して死んだのです。ですから、もし、私が古い自分で生きようとしたら、あいかわらず律法の下で苦しむことになります。
私たちの住むこの世界は、今後も能力主義で進んで行きます。相変わらず弱肉強食の価値観が支配しています。そして、自己責任という名の鞭で追い立てる世界です。しかし、イエスを信じる者は、その世界に対して死んで、恵みの世界で生きる者です。
(1)恵みとは〝一方的に〟の世界です。
イエスがくださる救いは、私の状態とは無関係に、一方的にくださる救いです。私がまだ罪人であったときに、まだ神に敵対しているときに、イエスは十字架で死んでくださいました。
だれが死んでくれって頼んだんだ!なんてうそぶく人がいます。でも、自分のために死んでくださる方が必要なことさえも分からない私でした。自分が永遠の滅びに突き進んでいる現状も気づかない愚か者のために、神が一方的に、先手を打って、罪の代価を支払ってくださいました。
某テレビニュースで、地下鉄のホームに転落した幼児を救出する青年の映像が放送されました。あと数秒で電車が入ってくるという緊迫した状況でした。幼児は死の危険が迫っていることに気づいていません。気づいたのは助けた青年でした。彼は飛び降りて、電車の来ない反対側のホームに幼児を逃がしました。
幼児は何が起きたのか、まだ十分に理解できていないでしょう。齢を経てこの映像を見たなら、その恵みの大きさを知るはずです。
私たちも歳をとり、自分の罪の深さを知るようになるにつれて、恵みを感謝するに違いありません。
(2)恵みとは〝すでに〟の世界です。
イエスがくださる祝福は〝すでに〟与えられています。すでに100%くださいました。
救いを受け取るためには、神の一方的な恵みであることは分かりました。しかし、その後の祝福は、自分の努力次第だと思っていませんか。私の努力や立派な生活に応じて、神が小出しに祝福してくださると思っていませんか。私の良い行いが、神の祝福を引き出す条件のように勘違いしていませんか。どれもこもれも間違っています。
神は、御子イエスを私にくださった時点で〝すでに〟すべてを与えてくださいました。「神はそのひとり子を与えるほどに世(私たち)を愛された」のです(ヨハネ3・16)。
そのイエス・キリストの中に神の祝福はすでに充満しています。
ある人が広大な土地を購入して農場を始めました。しかし、経営はうまく行かず借金がかさなり破綻寸前です。ところが、ある石油会社が彼の土地を調べたところ、膨大な油田を発見しました。
彼は、油田を発見した時点で億万長者になったのではありません。その土地を所有した時点で、すでに彼は億万長者になっていたのです。ただ、それを知らなかっただけです。
このように、イエスの恵みは〝すでに〟の世界です。私はこれを知って随分と楽になりました。神はすでに用意なさっています。あとは、それを信じて、恵みを発見するだけです。
(3)恵みとは〝安息〟の世界です。
神はイスラエルの民に、6日間働いて7日目は安息せよと命じられました。つまり、「働くな」と言われたのです。
この安息はイエスの中で完成しています。救いのために何もしない。祝福のために努力しない。ただ、神が用意なさったものを謙遜に受け取る世界……これが安息です。
何かしてないと落ち着かないほど、私たちは何かに追い立てられています。何もしないでいると、責められるような気がするのです。ですから、何かをしているフリさえもやろうとします。
これは律法の世界特有の病気です。パフォーマンス症候群です。
何もしなくてもよい世界。何も要求されない世界。そのままを受け止めてもらえる世界。それを「甘えだ」という人もいます。しかし、人間はそれほど強くありません。人にはこのような神の恵みが絶対に必要なのです。何もしなくても神によって義と認められる安息が必要なのです。
自分の弱さを認めて、神の恵みの世界で安息する道を確保してください。神の恵みを受け取ってください。ゆったりとした気分で安息を味わってください。
そこから湧き出る力こそ、世に勝つ力です。人の努力をはるかに超える力です。「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」(2・1)。
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。(2・1)
手紙の受取人であるテモテは大きなストレスを抱えていました。その事情はすでに申し上げたとおりです。胃腸も患っていたようで、先の手紙では、少量のブドウ酒を飲むように勧められるほどでした(第一5・23)。
現代人もストレス社会で重荷を背負っています。文明が進み、便利で快適な社会、社会制度も充実しているにもかかわらず、ストレスが減るどころか、かえって増えるばかりです。
職場ではノルマを課せられ、常に批判と評価の中にさらされています。そんな中で強くあろうとして、最大限の努力を強いられています。まるで「現代版・律法の世界」です。
律法はいつも努力を要求します。ノルマを課し、批判と評価を容赦なく浴びせるのが律法です。地上の世界はまさに律法の世界です。そのような社会の仕組みは、自転車操業みたいなもので、〝努力〟とうペダルをこぐのをやめてしまったら倒れてしまいます。だから、みな追い立てられるようにしてペダルをこぎ続けています。実につらい世界です。
律法に無くて福音にあるもの。それは「恵み」です。努力を軽んじるつもりはありません。ただその努力という「力」が、律法から追い立てられるようにして出ているのか。それとも恵みから出ているのか。それが肝心です。今日の御言は「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧めています(2・1)。律法の世界ではなく、恵みの世界に生きるようにと聖書は命じています。
とはいえ、律法が無くなるわけではありません。キリストは律法を廃止するために来られたのではなく、私たちが恵みの世界に生きることができるようにするために来てくださいました。
律法は無くなったのではなく、私が律法に対して死んだのです。ですから、もし、私が古い自分で生きようとしたら、あいかわらず律法の下で苦しむことになります。
私たちの住むこの世界は、今後も能力主義で進んで行きます。相変わらず弱肉強食の価値観が支配しています。そして、自己責任という名の鞭で追い立てる世界です。しかし、イエスを信じる者は、その世界に対して死んで、恵みの世界で生きる者です。
(1)恵みとは〝一方的に〟の世界です。
イエスがくださる救いは、私の状態とは無関係に、一方的にくださる救いです。私がまだ罪人であったときに、まだ神に敵対しているときに、イエスは十字架で死んでくださいました。
だれが死んでくれって頼んだんだ!なんてうそぶく人がいます。でも、自分のために死んでくださる方が必要なことさえも分からない私でした。自分が永遠の滅びに突き進んでいる現状も気づかない愚か者のために、神が一方的に、先手を打って、罪の代価を支払ってくださいました。
某テレビニュースで、地下鉄のホームに転落した幼児を救出する青年の映像が放送されました。あと数秒で電車が入ってくるという緊迫した状況でした。幼児は死の危険が迫っていることに気づいていません。気づいたのは助けた青年でした。彼は飛び降りて、電車の来ない反対側のホームに幼児を逃がしました。
幼児は何が起きたのか、まだ十分に理解できていないでしょう。齢を経てこの映像を見たなら、その恵みの大きさを知るはずです。
私たちも歳をとり、自分の罪の深さを知るようになるにつれて、恵みを感謝するに違いありません。
(2)恵みとは〝すでに〟の世界です。
イエスがくださる祝福は〝すでに〟与えられています。すでに100%くださいました。
救いを受け取るためには、神の一方的な恵みであることは分かりました。しかし、その後の祝福は、自分の努力次第だと思っていませんか。私の努力や立派な生活に応じて、神が小出しに祝福してくださると思っていませんか。私の良い行いが、神の祝福を引き出す条件のように勘違いしていませんか。どれもこもれも間違っています。
神は、御子イエスを私にくださった時点で〝すでに〟すべてを与えてくださいました。「神はそのひとり子を与えるほどに世(私たち)を愛された」のです(ヨハネ3・16)。
そのイエス・キリストの中に神の祝福はすでに充満しています。
ある人が広大な土地を購入して農場を始めました。しかし、経営はうまく行かず借金がかさなり破綻寸前です。ところが、ある石油会社が彼の土地を調べたところ、膨大な油田を発見しました。
彼は、油田を発見した時点で億万長者になったのではありません。その土地を所有した時点で、すでに彼は億万長者になっていたのです。ただ、それを知らなかっただけです。
このように、イエスの恵みは〝すでに〟の世界です。私はこれを知って随分と楽になりました。神はすでに用意なさっています。あとは、それを信じて、恵みを発見するだけです。
(3)恵みとは〝安息〟の世界です。
神はイスラエルの民に、6日間働いて7日目は安息せよと命じられました。つまり、「働くな」と言われたのです。
この安息はイエスの中で完成しています。救いのために何もしない。祝福のために努力しない。ただ、神が用意なさったものを謙遜に受け取る世界……これが安息です。
何かしてないと落ち着かないほど、私たちは何かに追い立てられています。何もしないでいると、責められるような気がするのです。ですから、何かをしているフリさえもやろうとします。
これは律法の世界特有の病気です。パフォーマンス症候群です。
何もしなくてもよい世界。何も要求されない世界。そのままを受け止めてもらえる世界。それを「甘えだ」という人もいます。しかし、人間はそれほど強くありません。人にはこのような神の恵みが絶対に必要なのです。何もしなくても神によって義と認められる安息が必要なのです。
自分の弱さを認めて、神の恵みの世界で安息する道を確保してください。神の恵みを受け取ってください。ゆったりとした気分で安息を味わってください。
そこから湧き出る力こそ、世に勝つ力です。人の努力をはるかに超える力です。「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」(2・1)。
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<You Tube>https://youtu.be/dYaYqFj3eyM
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