東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

幽霊坂~紅梅坂

2011年11月11日 | 坂道

前回の新坂上を直進し、次の交差点を右折する。ここは聖橋方面から延びる広い通り(本郷通り)で、交通量も多い。歩道をちょっと歩くと、左手にニコライ堂が見えてくる。

幽霊坂上幽霊坂上幽霊坂曲り角幽霊坂曲り角 上の地図を見ると、広い通りがニコライ堂の前で北(聖橋)の方に向けてカクッと曲がっているが、曲がらずにそのまま延びて下り坂となっている道がある。ここが幽霊坂の坂上である。歩道からまっすぐに下り、突き当たりを右折すると(直角に曲がっている)、長めの坂が途中ちょっと曲がるが、東へほぼまっすぐに下っている。おおむね緩やかであるが、中腹付近で勾配が少しきつい。

淡路坂の南に位置し、ほぼ平行に上下し、坂下の先は、昌平橋から延びる広い通りである。

その直角に曲がっている角に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。『東京名所図会』には、"紅梅坂は""往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。"とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、昌平橋の南側一本目を右折し、西へ延びる道に、ユウレイサカ、とあり、すぐその先に、フミサカ、とある。北には、淡路坂が平行に延びている。そのフミサカのすぐ先は突き当たりで、左へ直角に曲がっている。近江屋板では、直角の曲がりのすぐ手前(東側)に、△ユウレイ坂、とあり、フミサカという坂名はない。双方とも、幽霊坂と、直角の曲り角は、現在と同じであるが、尾張屋板にあるフミサカというのが不明である。

幽霊坂中腹幽霊坂中腹幽霊坂下側幽霊坂下 北側のビルと坂下側の歩道が工事中でちょっと荒れた感じである。工事が終わったらまとまりのある風景になるのであろう。

標柱に別名として光感寺坂、埃坂とあるが、これについて疑問が生じた。

『御府内備考』に埃坂(ゴミサカ)について次の説明がある。

「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名光感寺坂と云よし。【江戸紀聞】又甲賀坂ともいふ。」

これを以前どこかで引用した覚えがあるので、調べると、番町の五味坂の記事である。その坂の標柱の説明は次のとおり。
『「この坂の名称は、五味坂(ごみざか)といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたともいいます。・・・』

『御府内備考』に記載の上記の埃坂(ゴミサカ)とは、どこの坂をさすのか。この幽霊坂の別名か、または、番町の五味坂か。

埃坂の次に「観音坂 埃坂の並びなり。・・・」の説明がある。この観音坂の説明でいう「埃坂」は、上記の埃坂と考えると(これが自然と思われる)、『御府内備考』の「埃坂」は観音坂の近くの坂ということになる。

尾張屋板江戸切絵図のユウレイサカ、フミサカとある道筋を西へ進むと、二回直角に折れ曲がるが、その南側に定火消役屋敷とあり、さらに進めば、「火消屋敷の上へ上る」ということになる。近江屋板も同様である。このように、江戸切絵図のユウレイサカは、『御府内備考』でいう埃坂(ゴミサカ)となりそうである。

『御府内備考』では観音坂を上記のように「埃坂の並びなり。」としていることから、観音坂の記事で、埃坂を、観音坂上を直進したところと考えたが、そうではなく、観音坂に平行と考えると、実際とあう。ただし、「並び」を平行と解することになるが、これが妥当なのかちょっとわからない。また、甲賀坂という別名が観音坂上を直進したところにある「甲賀坂」(標柱が立っている)と重複することになる。

尾張屋板にある「フミサカ」は、ゴミサカのことかもしれない。江戸切絵図は誤記が多いので、これもそうとも考えられる。

番町の五味坂の近くに観音坂はないようで(観音坂は、調べた範囲では都内で三箇所だけである)、また、江戸切絵図を見た限りであるが、坂上近くに火消屋敷もないようである。

以上のように、『御府内備考』にある埃坂は、番町の五味坂ではなく、この駿河台の幽霊坂ということになるが、はたしてこれでよいのか、他の有力な別の説がないのか。

紅梅坂下紅梅坂下紅梅坂中腹紅梅坂下からニコライ堂 幽霊坂下を左折し淡路坂にでて、ここを上り、坂上の本郷通りを横断し、左(南)へ向かう。次を右折すると、紅葉坂の坂下である。緩やかにまっすぐに西へ上っている。ニコライ堂と井上眼科病院との間の道である。井上眼科病院とは、そのむかし、漱石がここに通院し、初恋の人と出会ったところである(以前の記事参照)。

中腹に立っている標柱に次の説明がある。

「この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。『東京名所図会』には、"東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり。もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり"とかかれています。」

江戸切絵図で坂下からユウレイサカの道筋を進み、二回直角に折れ曲がってからまっすぐに西へ進む道筋が、本郷通りを横切って上るこの坂である。ニコライ堂は『御府内備考』の上記の埃坂の説明にある火消屋敷の跡にできたので、この坂は、要するに、上記の幽霊坂から続く坂で、幽霊坂の別名である。上の現代地図を見ると、幽霊坂と紅梅坂は江戸切絵図と同じ道筋であることがわかるが、現場は、広い通りで分断されこの間に横断歩道もないので、連続した道筋であったこともわかりにくくなっている。

紅梅坂中腹紅梅坂上紅梅坂上紅梅坂上 明治地図(明治40年)を見ると、ニコライ堂のあたりは東紅梅町となっているが、この地名(他に西紅梅町がある)は、なんと「江戸時代からの通称である紅梅坂」に由来するとの説明がある(「東京の地名由来辞典」東京堂出版)。これではどちらが先であるのかわからない。この坂は、文化(1804~1818)のころに戸田家の裏門前の通りにあたり、辻甚太郎という者の屋敷に紅梅の大木があって、枝が通りに差し掛かり壮観であったことにちなむ(駿河台志)とある。(駿河台志のこの部分は、岡崎に原文がのっている。)

横関には次の説明がある。

紅梅坂:千代田区神田淡路町二丁目からニコライ堂のほうへ上る坂。幽霊坂とも。
埃(ごみ)坂:千代田区神田駿河台、ニコライ堂の北わきを西へ上る坂。紅梅坂、光威寺坂、光威坂とも

横関は、紅梅坂=幽霊坂=埃坂と考えているようであるが、都内に七箇所残っているとする芥坂・埃坂の一つとしてもっぱら説明し、別名の由来について説明は特にない。

千代田区のHPには次の説明がある。

「50.紅梅坂(こうばいざか)幽霊坂(ゆうれいざか)・光感寺坂(こうかんじざか)・埃坂(ごみざか)  「本郷通り」から、ニコライ堂の北側を「お茶の水仲通り」の方に上る坂です。もともとは「51.幽霊坂」とつながっていた坂道でしたが、昭和の始めに「本郷通り」が開通して、途中で分断されてしまいました。ですから幽霊坂の別名もあります。
 昔、この坂を上りつめた辺りに紅梅で知られた光感寺があったことから、紅梅坂または光感寺坂とも呼ばれていました。なお、「埃坂」(ごみざか)などの古名もあったようです。これらと同名の坂は「24.」・「51.」にもあります。」

ここには、紅梅で知られた光感寺が出てくるが、横関の説明にある光威寺と同じ寺なのか、違うのか不明である。また、駿河台志の云う紅梅の大木があった屋敷と、光感寺との関係も不明である。

上記のように、このあたりの坂は、坂名やその由来などちょっと不明な点が多い。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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