東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新坂(淡路町)

2011年11月03日 | 坂道

新坂下 新坂下 新坂中腹 新坂中腹 前回の観音坂を下り、坂下を左折して北へ進み、次の交差点を左折すると、新坂の上りとなる。観音坂と平行に西へまっすぐに上り、距離も短いが、観音坂よりも勾配がある。

ここも工事中で、この右側(北)にあった淡路公園が見えない。工事中とはいえ、ちょっと無残な姿である。以前、この坂に来たとき、この公園のベンチで休んだ覚えがあるが、それも過去のことになったようだ。

坂上側に標柱が立っているが(四枚目、下二枚目の写真)、ほとんど判別不能である。工事完了後に新しくなるのであろうか。千代田区のホームページには次の説明がある。

「52.新坂(しんざか) 「本郷通り」から、淡路公園の南側を「外堀通り」の方向に下る坂です。明治維新前は備後福山藩阿部家の敷地でしたが、明治になってその中央に道路を通してできた坂道で、新しい坂ということから名付けられました。
 明治20年ごろニコライ堂建築の足場から撮った写真には、阿部家の塀の中央部分が道を通すために切り開かれている様子が、はっきり写っています。なお、同名の坂は「11.」と「32.」にもあります。」

新坂上 新坂上 新坂上 尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、観音坂の北側に平行な道がある。ここがいまの新坂の道筋とすると、明治になってからできた新しい坂という説明と合わない。調べると、尾張屋板の「クワンヲンサカ」の文字が上側(西)にあるためとわかった。尾張屋板で阿部伊豫守邸と松平左右衛門尉邸との間を西へ進むと、ちょっとした突き当たりになるが、そこが観音坂の坂上と考えると、辻褄があう(その突き当たりの先、西側に「クワンヲンサカ」とある)。近江屋板では、この突き当たりのところに坂マーク△があるので、現在の坂と合っている。もっともいまの坂上の先までをも観音坂とよんだとすれば、尾張屋板もあながち誤りだとはいえないかもしれない。坂上を右折し北へ進むと、ずっと阿部伊豫守の屋敷が続くので、確かに幕末までこの坂はなかったことがわかる。

新坂という名の坂は、都内に多数あるが、ここは明治になってから新たにできたために、新坂とよばれた。千代田区のHPには、同区内の他の二つの新坂が紹介されている。永田町二丁目の新坂と、JR市ヶ谷駅前から南へ上る新坂

坂上を西へ直進するが、この道は江戸切絵図にある道筋である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 観音坂(淡路町) | トップ | 幽霊坂~紅梅坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事