今回は、お台場から歩いて行ける第三台場のある台場公園を訪ねてから、東京ビッグサイトまで歩いた。
新橋駅からゆりかもめに乗車。この電車は高架を走る。しばらくすると海岸に近づき、運河の向こうに倉庫群が見えてくるが、月島の西端に位置する豊海町の倉庫群である。東京湾がよく見えてくると、円形軌道に入って風景を次々と変えながら高度を上げて、レインボーブリッジに入り、自動車道路と併走しながら東京湾を渡る。じつはこの線に乗るのは初めてであるが、眺望がよく、旋回して風景が連続的に変化したりして、こういったところであったのかと少々驚き、いつになくおもしろい乗車体験をした気分になった。
レインボーブリッジには遊歩道があって、人が歩いていたが、地図で確認すると、港区海岸三丁目の南端に遊歩道出入口があり、お台場側には台場一丁目の北端近くに出入口がある。いつか歩いてみたい。
お台場海浜公園駅で下車。
北側にでると、高層ビルの団地があるが、首都圏の住宅街でよく見なれた風景である。ここを通り抜けて、道路を横断すると、お台場海浜公園で、松林の向こうに浜辺が見える。なかに入ると、砂浜が広がり、右手奥に第三台場のある台場公園がある。左手から続く砂浜と台場公園とそこに続く道のある直線部分によって、入り江のようになっていて、静かな水面が遠くまで広がっている。一、二枚目の写真のように、第三台場が見えるが、その向こうに、さきほど通ったレインボーブリッジが見える。
左に海面を見ながら北へ歩き、入り江のはしで、左折し、まっすぐに続く道を進むと、三枚目の写真のように、台場公園の出入口の階段が見えてくる。そのわきに台場の壁面も見えるが、石垣でしっかりとつくられている。ここを上りなかに入ると、すぐのところに、台場公園の説明パネルが建っている。その第三台場の案内地図を撮ったのが四枚目の写真であるが、この第三台場はほぼ正方形になっていることがわかる。
平坦な所と思って来たが、そうではなく、一枚目の写真のように、かなり広く中央部分が窪地になっている。細い道を下ると、底部は背の低い草地であるが、水はけが悪いようで、所々に水たまりができており、また、あちこちに池がある。窪地の法面に穴倉が見えるが、弾薬庫だったらしい。二枚目の写真に写っている建物基礎の残骸は、陣屋跡であるとのこと。窪地から上り、西側にでると、三枚目の写真のように砲台跡があるが、江戸時代のものではないと説明パネルにある。
都立台場公園(第三台場)について上記の説明パネルに説明があるが、その歴史が次のように簡単にまとめられている。
『「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来港した翌月の嘉永六年(一八五三年)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されていいます。
このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬倉庫跡などがあります。』
幕末に米国をはじめとした諸外国の船が押し寄せて来て、その近代的軍事力に威圧されて開国したが、幕府や諸藩は、これに対抗すべく武備の充実を図ろうとした。その一環として、老中阿部正弘は、優秀な人材登用を行い、たとえば、勝麟太郎(海舟)、岩瀬忠震、永井尚志、江川太郎左衛門(英龍)などが抜擢された。そして、具体的な海防・軍備対策の一つが、この品川沖の台場の建設であった。これは上記の江川英龍の意見を入れたもので、昼夜兼行の大工事であったが、できあがった台場はほとんど役にたたなかった。
明治地図(明治四十年)を見ると、芝区全図に、品川沖に第一台場~第六台場がある。品川の岸から沖(東)に向かって、四番、一番、五番、二番、六番、三番の順で並んでいる。この順番は、どのようにしてつけられたか不明だが、完成順であろうか。
上の現代地図から古地図の昭和22年の航空写真を見ると、このころ、もっとも岸側の第四台場以外は、まだ東京湾に残っていたことがわかる。しかし、昭和38年の航空写真では、現在のように第三台場、第六台場だけとなっている。
ところで、これらの台場は、太平洋戦争中にどのように使われたのであろうか。米軍の飛行機来襲にそなえて高射砲を設置したのかもしれないなどと考えてしまった。これは、まったくの想像であるが、もしそうだとしたら、幕末に黒船来襲をきっかけにつくられたがほとんど使われなかった台場が、その百年近く後に、米軍機の空襲に対抗するために使われたことになる。本当はどうだったのだろう。
二枚目の写真のように、この第三台場から西に第六台場が見える。ここは孤島のようになっていて、陸続きではないが、すぐわき斜め上方にレインボウブリッジが通っているので、そこの遊歩道から見下ろすことができそうである。
第三台場の西南に別の島が近くにある(一枚目の写真)が、地図で見ると、鳥の島である。第六台場の南に、同じような細長い形状の島が二つ並んでいる。これも人工的なものと思って、ネットで調べたら、昭和のはじめに建設された東京港の島式防波堤で、お台場などの埋立地ができる前まで港内を波浪から守っていた。その後、時間の経過とともに植物が繁茂し、現在、野鳥の繁殖場所になっているとのこと。第六台場も遠くから見てもかなり樹木が茂っているので、同じようになっているかもしれない。
西側からふたたび窪地に下りると、上の三、四枚目、その上の四枚目の写真のように、そこは、樹木が生い茂り、かなり鬱蒼としたところもあって、近くのレインボーブリッジも高層ビルも見えなくなると、どこか、山の中に来たような錯覚に陥るほどである。このあたりにも所々、池や水たまりができているが、足がとられるような泥地ではなく、歩きやすい。 江戸末期につくられたとはいえ、臨海副都心とよばれる所でこんな風景に出くわすとは思わなかった。これもまたおもしろい体験であった。
階段を上り、北側にでると、一枚目の写真のように、細く延びたコンクリートでできた人工岸が見えるが、むかしの船着き場であったのだろうか。いまはよい釣り場になっているようである。二枚目の写真のように、眼の前にレインボーブリッジが見えるが、その橋脚の向こうかなり遠くに、スカイツリーが見える。(一枚目の写真には東京タワーが見える。)
ここから、北側の縁を通って出入口にもどるが、その近くで東側を撮ったのが三枚目の写真である。高層マンションが見えるが、その方向にもどり、道路の歩道を南へ向かう。四枚目の写真は、その途中で撮ったもので、一部紅葉している。
台場公園から湾岸道路にでて、東京ビックサイト方面に行こうと、歩道も続いているだろうと思って、東へ進むが、どうもそんなものはなさそうである。しかたなく引き返すと、遠くに歩行者用の長い屋根つき歩道橋が見える。そこを通って、観覧車などがある施設の手前まで行き、そこから東への広い遊歩道は工事中で、ちょっと味気ない工事用白壁で片側が仕切られた道を進むと、夢の大橋という歩行者専用の広い橋にでる。このあたりは、自動車道路と歩行者道路をはっきりと分けているようで、とまどってしまう。どうも自由度がなさすぎるように思えるが、これを超近代都市(未来都市)というのだろうか。
一、二枚目の写真はその橋から撮ったものである。ここは東京湾の埋立地の南端ではなく、まだその先が続いている。
夢の大橋から直進し、途中右折し、ゆりかもめ線の国際展示場正門駅の歩道橋を渡って、南側の水の広場公園に行く。三枚目の写真は、その公園から南側の沖を撮ったものである。両側で岸壁が南へ長く延びているが、その先には、現在、また埋立地ができており、この一帯も東京湾埋立地の南端ではない。佃島の記事で、東京湾は、明治以降、どんどん南へと埋め立てられていったことを書いたが、その南端はいつも埋立中で、なかなか行き着くことはできないようである。
晩秋の空はもう暮れかかってきて樹木の色づいた葉が西日に弱く照らされている。水の広場公園から東京国際展示場(東京ビッグサイト)に行く。ここが今日の最終目的地である。というのは、ここで夕方からプロ公式戦であるJT将棋日本シリーズの決勝が公開対局で行われるからである。
一、二枚目の写真は会場内で撮ったものであるが、何人かのプロ棋士の等身大の写真パネルが飾ってある。決勝に進んだのは、二枚目の写真の羽生善治王位・棋聖と渡辺明竜王・王座で、二冠同士の対決。持ち時間10分、5分の考慮時間、使い切ると一手30秒未満という超早指戦である。
予定時間では、すぐに始まるはずだったが、その前の子供将棋大会が遅れているらしく、その決勝が行われていた。高学年部門が終わると、低学年部門の決勝が始まったが、観戦していると、かなり強いことがわかる。一手30秒未満であるが、双方ともとんでもない悪手は指さない。
日本シリーズの決勝が渡辺先手で始まったが、相矢倉戦となって、封じ手のあたりでは、渡辺有利と思った。封じ手で▲35角と銀を取らずに、▲28飛といったん逃げ、飛車取りに△16桂と打たせてから、飛車を捨て▲35角と銀を取ったからである。
以降、ちょっとわからない応酬が続いた。終盤、羽生が捨て駒を続け、先手玉を詰ましにいったが、本当に詰んでいるのかどうかわからない。プロの将棋対局を観ていてもっともおもしろい詰むや詰まざるやの局面である。公開対局で、プロ棋士(豊川孝弘七段)の解説付きであるが、対局者の耳に入ることを慮ってか、解説もはっきりと、その結論をいわない。ただ、その直前に、終盤になると端歩を突いていることが詰みに影響することがよくあるようなことをいっていたが、それが本当になった。(たぶん、詰み筋をわかっていて、そのような解説をしたのであろう。)
羽生が△87金と金を捨てたとき、さすがの私でもその詰みに気がついた。▲同玉△89竜▲88合い駒△78銀▲96玉△95歩(端歩の突きがここできいた)▲85玉△83香まで、渡辺の投了となった。以下、▲84合い駒△73桂までのぴったりの詰みである。
私のような素人は終盤を面白がるが、本当の勝負は、その前らしく、封じ手以降、形勢は二転三転していたように思ったが、どこがどうなのかはよくわからない。
遅くなったので、対局が終了すると、すぐに会場をでて駅に向かったが、歩きながら詰みの局面を思い浮かべ、もう一度詰ましてみた。
なお、開演時間からかなり遅れて入場したので、後の方の席しかなく、解説用大盤が見えにくかった。小さな双眼鏡を用意すべきであった(私の感想戦)。
後日、渡辺明竜王・王座のブログを見たら、勝ちを何度か逃して最後は詰まされて逆転負けであったことを書いていた。
今回の携帯による総歩行距離は、11.9km。
参考文献
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)