東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

観音坂~榎坂

2010年12月17日 | 坂道

観音坂中腹 鳩森八幡神社を出て将棋会館に行ってみる。ここには来たことはあるがかなり以前(たぶん30年ほど前)で、今回がはじめてといってよいが、入口付近はテレビなどでよく見る。一階のショップを見てから会館を出て、もとの道を右折し、次の四差路を横断し直進して東に進む。しだいに下り坂となり、前方で左に緩やかに曲がっている。ここが観音坂である。こういった曲がりのある坂道にくると何となくほっとした感じになる。これはいつものことであるが。

尾張屋板江戸切絵図をみると、観音坂と思われる道が緩やかにカーブしながら聖輪寺に向けて下っている。その寺に、観音、とあるから、下の標柱の説明にもあるように、これが坂名の由来であろう。

坂途中に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたといいます。」

観音坂標柱 「江戸名所図会」は、千駄ヶ谷観音堂とし、次のように紹介している。

「本尊如意輪観音像は、当寺開山行基大士の彫像にして、御丈三尺五寸あり。世俗目玉の観音と字し奉る。(往古慶長三年の春、盗賊来り、この本尊の御双眼は精金なりと聞伝へ、鑿りとりて去らんとせしが、冥罸にやよりけん、自ら持てる所の刃に貫かれて死せり。この地の高橋氏某、目のあたりこれをみて驚嘆し、堂宇を再興す。この故に里民目玉の観音と字したてまつるよし、本尊縁起にみゆ。菊岡沾凉翁の説に、江戸寺院の中千有余歳を歴たるものは、浅草寺と当寺なりといへり。)」

「江戸名所図会」には千駄ヶ谷観音堂の挿絵ものっており、聖輪寺のわきに続いている道が観音坂であろうか。この絵や千駄ヶ谷八幡宮の挿絵を見ると、このあたりは、江戸のころ、幽邃(ゆうすい)の地であったことがよくわかる。

榎坂上 坂下からもどり、途中、左折して進み、右手に瑞圓寺の山門を見てさらに歩くと、やがて下り坂になる。榎坂である。ここも気持ちよくうねっており、坂下側で右に曲がっている。

尾張屋板江戸切絵図では、緩やかにカーブした道が描かれており、その坂下は、神社の四差路から南に下った道につながっている。これはいまも同じであるが、現在はさらに南に延びている。近江屋板では、この坂下からそのまま西へ南へ延びる道がある。

坂下から広くなった道に出た歩道わきに標柱が立っている。標柱には次の説明がある。

「「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。かつて、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。」

榎坂下 横関には、もとこの坂の途中西側に「お万榎」があったとある。

坂下の標柱のあるところから北にちょっと坂道を上ると榎稲荷がある。石段を曲がりながら上ると、小祠があり、いかにも昔らしい雰囲気が残っている所である。この榎稲荷と榎坂は離れているがワンセットという感じがする。

今回の観音坂、榎坂はともに緩やかに湾曲しており、いかにもかつての田園風景を想起させる雰囲気を持つ坂である。こういった坂が都心にあることは驚きであり、このまま残ってほしいと思う。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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