東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

佃大橋~佃島(2)

2011年10月11日 | 散策

佃島渡船の石碑(佃島側) 佃小橋への道 佃一丁目2番 佃一丁目3番 前回の佃大橋を渡り、東詰の歩道から階段で下におり、防波堤を越えて佃島に入ると、すぐのところに細長い小さな公園がある。ここに佃島渡船の石碑が建っているが(一枚目の写真)、前回の対岸の石碑と同じ記念碑である。

石碑の前から、二枚目の写真のように、通りが東へまっすぐに延びており、この先に佃小橋がある。三枚目の写真は石碑を背にして左手の道、四枚目の写真は右手の道を撮ったもので、両方に佃島伝統のつくだ煮屋が見える。

 文久二年(1861)の尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)
 明治11年(1878)の実測東京全図
 明治40年(1907)の明治地図
 昭和16年(1941)の昭和地図

手元にある上記の地図を年代順に見ると、佃島は、明治になってから大変貌を遂げたことがわかる。すなわち、明治11年には、懲役場のあった広い石川島のわきに佃島しかなかった。よく見ると、佃島には東西二つの島があり、この間に川があり、ここに小橋がかかっていた。これは切絵図(江戸末期)とほぼ同じである。ところが、明治40年には、北側に東京石川島造船所ができた旧石川島と接して新佃島が佃島の東にできており、さらには新佃島の南西には佃島よりもかなり広く月島ができている。また、相生橋が新佃島と深川越中島との間に明治36年(1903)にできた。

月島は、隅田川河口の浚渫土で埋め立てられてできた埋立地で、明治18年(1885)東京府技師倉田吉嗣が設計し、日本土木会社が請け負って築成された。北半分は明治25年(1892)、南半分は明治27年(1894)に完成した。明治を通じて次第に町地を拡充して築きたる島で、海中に突出して観月に恰好の地であったため築き島(月島)と名づけられたという。

昭和15年(1940)6月月島と対岸の間に勝鬨橋が開通し、ここにあった勝鬨の渡しが廃止されている。月島には、月島渡という別の渡し場もあった。

昭和16年の地図には、月島の西に勝ちどきの埋立地の一部ができており、南には晴海ができている。さらに、晴海の東には豊洲などもできている。明治以降、佃島から先の東京湾は南へとどんどん埋め立てられていったことがよくわかる。

現在の東京湾の地図を見ると、晴海、豊洲のさらに南には有明、台場、青海などの埋立地ができており、佃島、月島は銀座のちょっと先の内陸地のような位置といってもよいほどである。それでも佃島、月島に徒歩や車で行こうとするとかならず橋を通ることからここが島であることがわかるが、有楽町線と大江戸線の地下鉄が通っていることもあって、島という感覚も薄くなっている。

住吉神社住吉神社江戸名所図会 佃島佃小橋への道 上記の佃島渡船の石碑を背にして左の道(佃一丁目2番)へ進み、次を右折すると、一、二枚目の写真のように、住吉神社があるが、この神社は佃島の発祥と深い関係がある。

江戸初期、徳川家康が摂津国西成郡(大阪市)佃村から呼び寄せた漁民に隅田川の河口の洲島を与えて漁業を営ませたことから島名を佃島としたという。その後、正保三年(1646)に現在地に創建されたのが住吉神社である。移住した漁民の郷里である摂州の住吉神社から分祀したもので、海上の守神として信仰された。

『江戸名所図会』にある佃島の挿絵は、対岸の船松町側から見た俯瞰図であるが、佃島の原風景を見るようで、はなはだ興味深い。隅田川の河口には大小たくさんの船が往来している。佃島に手こぎの渡船が着いた。渡し場の前から続く道と、行き交う人々が見える。両わきに家々が並び、その先に橋がある。これがいまの佃小橋(四枚目の写真)であろう。橋を渡った先にも家が見え、橋の左手には樹木に囲まれた住吉神社がある。はるか遠くに上総、安房の山々が見える。

一枚目の写真のように、住吉神社にはむかしからの様子が伝わる雰囲気が残っているが、背後にそびえる高層マンションによって現在に引きもどされる感覚になる。これはここだけに限らず、佃島全体がそうで、どんなアングルでも新旧混在の風景となる。

佃小橋佃小橋佃小橋佃川支川の堀留まり 住吉神社から佃小橋に行く。一~三枚目の写真のように、ここは欄干が朱色に染まっているので、よく目立つ。この橋の下の川が佃川支川(つくだがわしせん)である。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、住吉神社と佃の渡し場のある西側と、東側との間に隅田川から続く川があり、ここに小橋がかかっている。すなわち、佃川支川は、隅田川からの支流が住吉神社の裏手で直角に折れ曲がり、小橋の下を通って佃川に至る。佃川は、新佃島と月島との間を流れていたが、昭和40年(1965)3月佃一丁目から南側の初見橋まで埋め立てられ、昭和62年(1987)4月残る堀も埋め立てられ、現在、道路となっている。この埋立のため、佃川支川は、四枚目の写真のように佃小橋の南で留まっているが、ここは、かつての佃川との合流点近くと思われる。この近くで佃川に佃橋がかかっており、佃橋と初見橋との間に新月橋という橋もあった。

前回の記事の「佃渡しで」の吉本隆明は、大正13年(1924)11月25日京橋区月島東仲通り四丁目1番地(現・中央区月島四丁目3番)に生まれた。現在の月島の中央近く清澄通りの南側である。同年4月ころ祖父母、父母ら吉本一家は熊本県天草郡志岐村から月島に移ってきていた。その後、昭和3年(1928)頃、京橋区新佃島西町一丁目26番地(現・佃島二丁目8番6号)に移った。佃橋の東側すぐの所である。次に、昭和12年(1938)頃、新佃島西町二丁目24番地(現・佃島二丁目5番14号)に移ったが、佃橋から東へちょっと離れた所である。いずれの住居も佃小橋にも近く、その先に佃の渡し場がある。

吉本は、上記のように、佃島の東に明治以降にできた新佃島で育ったが、ここが「佃渡しで」の背景である。

「水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった」

戦前の昭和地図(昭和16年)をふたたび見ると、新佃島は、南西側には佃川(佃堀)が流れ、西側には佃川支川が流れ、東側には相生橋がかかる大きな隅田川(晴海運河)が流れている。まさしく「水に囲まれた生活」で「いつでもちょっとした砦のような感じ」であったのであろう。「夢の中で堀割はいつもあらわれる」としているように、掘割のイメージが強くあらわれるが、佃川や佃川支川がその掘割であったと想われる。悲しみを流すために「少年が欄干に手をかけ身をのりだし」たという橋は、佃橋や佃小橋や新月橋などであろうか。

現在、佃島には、古くからの住吉神社があり、堀留まりとなった佃川支川と佃小橋がかろうじて残っているが、かつての風景を知らない者にとって、どの程度むかしのイメージを残しているのか不明である。しかし、ここだけ特別ということはないから都内の他地域と同じように相当に失われていることは確かと思われる。

特に佃川支川は留まりで池のようになってしまい、木製の小舟が沈んでいたりして、ちょっと無残な光景である。周囲を見わたすと、高層マンション群が歴史のある佃島に超近代性のイメージを付加しているように思えてくる。

佃川支川の堀留まりそばのベンチで一休みし冷たいペットボトルでのどを潤してから月島駅へ。

携帯による総歩行距離は9.4km。

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
竹内誠 編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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